【この記事の読みどころ】
・高校中退してプロ入りした甲子園優勝投手とは?
・エースと主将の2選手を欠きながら全国制覇した高知
・爆発事故で沈む街に希望を与えた三池工
1960年(昭和35年)
――第42回大会決勝
法政二|000|012|000|3
静岡 |000|000|000|0
この夏、優勝を果たした法政二の強力打線は高校生離れしており、「大学生並み」と呼ばれていた。チーム打率.335、三塁打8本、二塁打14本、総安打58本、35得点をマーク。さらに2年生ながらエース・柴田勲(元巨人)が好投。危なげなく決勝進出を果たす。
試合は5回に法政二が先制すると、6回にも加点。柴田が静岡打線を寄せつけず、初回以外は二塁を踏ませない好投をみせて優勝を果たした。
1961年(昭和36年)
――第43回大会決勝
浪商|000|010|000|1
桐蔭|000|000|000|0
この年のセンバツでは法政二が優勝して、夏春連覇を達成。夏の甲子園でも、法政二は当然、注目を集めた。
しかし、そこに立ちふさがったのが浪商の尾崎行雄(元東映)だ。実は法政二と尾崎の対決は、これで3度目。前年の夏の甲子園と、春のセンバツでは尾崎は敗れていた。
そして、法政二と浪商は準決勝で激突。延長戦の末、11回に2点を入れた浪商が雪辱を果たした。さらに決勝に進んだ尾崎は、対する桐蔭打線を相手に快投。13もの三振を奪って全国制覇を成し遂げた。なお、尾崎はこの年の11月に浪商を中退、プロ入りした。
1962年(昭和37年)
――第44回大会決勝
久留米商|000|000|000|0
作新学院|000|000|10×|1
作新学院が大会史上初となる、春夏連続優勝を果たした。前述した法政二をはじめ、甲子園にその名を残したいずれの強豪校も成し得なかった大記録である。
センバツでは苦戦続きで優勝した作新学院。夏はなんと、エース・八木沢荘六が赤痢を発症、という予想外の出来事を乗り越えながらの優勝であった。
決勝は第1回大会以来、47年ぶりに出場した久留米商が相手。試合は1、2回のチャンスを逃した久留米商に対して、作新学院は少ないチャンスをモノにして、7回に先制。虎の子の1点を守り切り、快挙は達成された。
1963年(昭和38年)
――第45回大会決勝
明星 |200|000|000|2
下関商|000|001|000|1
第40回大会に次いで、記念大会となったこの年の甲子園。48校の代表校で、甲子園球場のほか西宮球場も併用して大会が開催された。
優勝したのは、40年ぶりに出場した大阪代表の明星高校。初優勝で、大阪に3度目の栄冠をもたらした。決勝の相手は、エース・池永正明を擁して、春のセンバツを制した下関商。明星は初回に奇襲攻撃をみせて2点を先取。下関商も6回に1点を返すも惜敗。春夏連覇は成らなかった。
1964年(昭和39年)
――第46回大会決勝
高知|200|000|000|2
早鞆|000|001|000|0
初の全国制覇を果たした高知は、まるで漫画のようなハプニングを乗り越えて優勝を果たした。
1回戦の秋田工戦で、エースで4番を務める有藤道世(元ロッテ)が死球で倒れ、以降の試合は出場不可能となった。さらに続く2回戦では、主将の三野幸宏が同じく死球を受けて病院に搬送。文字通り傷だらけで、甲子園を戦い抜いた。
決勝戦は、初出場ながら勝ち上がってきた早鞆との対戦だった。高知は初回の2点を守り切って初優勝! しかし、閉会式後は監督の胴上げを行わず、ナインは病院へ直行。有藤と三野の見舞いに駆けつけた、というエピソードもある。
1965年(昭和40年)
――第47回大会決勝
銚子商|000|000|000|0
三池工|000|000|20×|2
2年前の1963(昭和38)年11月5日に起きた三池炭鉱爆発事故は、450名もの犠牲者を出した大変悲しい事故であった。事故が起きた福岡県大牟田市三池郡高田町(現みやま市)からの出場校が三池工であり、初の全国制覇は、三池の市民たちに明るい話題と希望を与えたのだった。
決勝の相手は銚子商。炭鉱の街から出場した三池工ナインが「山の子」と呼ばれたのに対して、銚子商ナインは「海の子」と呼ばれた。この対決を制したのは「山の子」たち。しかも、工業高校の優勝は史上初だった。また、指揮した原貢監督は後年、東海大相模の監督となり、再び甲子園で旋風を巻き起こすことになる。
1966年(昭和41年)
――第48回大会決勝
中京商|001|010|100|3
松山商|010|000|000|1
この年の大会は、現在は古豪と呼ばれるような高校の活躍が目立った。決勝に残ったのは中京商と松山商。この両者は第18回大会の決勝以来、34年ぶり3度目のライバル同士の決戦となり、世間の注目を大いに集めた。
また、中京商はセンバツも制しており、結果からいえば、同校6度目となる夏の優勝を果たすとともに春夏連覇も達成した。
殊勲はなんといっても、中京商のエース・加藤英夫だろう。作新学院が春夏連覇した際は、八木沢、加藤と別々のエースが活躍したけれども、中京商の場合は、この加藤が一人で全試合を投げ抜いた。センバツと夏の甲子園の両大会計10試合を全て完投。173センチ74キロとそれほど大きな体の持ち主ではないが、抜群のスタミナを武器に好投を続けて、甲子園の歴史に新たな1ページを加えたのだった。
1967年(昭和42年)
――第49回大会決勝
習志野|200|001|202|7
広陵 |000|000|100|1
強豪や名門が相次いで敗退したこの大会は、波乱が多かった。そんな大会の象徴が、初優勝した習志野であった。5年ぶり2度目の出場で、学校創立10年目。大会第1日の第1試合で堀越に勝利した習志野は、下馬評を覆す活躍を見せて、あれよあれよと勝ち進む。
準決勝では、中京商から改名した中京と対戦した習志野。エース・石井好博と捕手・醍醐恒男のバッテリーを中心に、中京の機動力を封じ込んで、予想を覆す勝利。広陵との決勝戦では、池田和雄が本塁打を放つなど試合を優位に進めて圧勝。千葉県に初めて優勝旗をもたらしたのだった。
★★★次回は第50回〜第59回大会の決勝戦の模様をお伝えします。
(文=編集部)