日本プロ野球史に残る「ストーブリーグの生みの親」といえば、赤嶺昌志だ。
中部日本(中日)の球団代表を務めていた赤嶺は、1947年の暮れに成績低迷の責任を取らされ、辞任する運びになった。しかし、赤嶺はただでは去らない。小鶴誠、三村勲、金山次郎ら、赤嶺派の選手7人を引き連れて、急映(大映)に移籍したのだった。
赤嶺旋風はこれで終わらない。1949年のオフには2リーグ分裂に乗じてセ・リーグの連盟総務に就任。赤嶺派の選手が今度はセ・リーグに加盟する松竹に大量移籍した。
2度あることは3度ある。1952年オフに今度は弱小球団だった広島への大量移籍と球団社長就任を画策。マスコミにすっぱ抜かれ、球団社長にはなれなかったが、日本プロ野球界を代表するスターが広島に移籍した。
一連の引き抜き合戦の火蓋を切り、フィクサーの印象が強い赤嶺だが、日本プロ野球界の「ストーブリーグ」を作り出したのは、間違いなくこの男だった。
契約更改での揉め事はよくあるが、会見の席でぶちかましたのは新庄剛志(元阪神ほか)だ。1992年に亀山努と「亀新フィーバー」を巻き起こし、当時阪神の若手筆頭だった新庄がなんと引退を表明。「センスがない」「Jリーガーになる」と言い残し、球界を去ろうとした。
主因は前年まで2監督を務め、1軍新監督に就任した藤田平との確執だったが、23歳でこんなファンキーなことができるのは新庄しかいないのではないだろうか…。
結局、セ・リーグ会長まで乗り出す事態になり、新庄は引退を撤回。揉めに揉めれば野茂英雄(元ドジャースほか)のようにメジャーに行けるのでは、という目論見もあったと後年語っている。
ストーブリーグの戦いは「球団×球団」「選手×球団」だけとは限らない。懐かしい頃合なのは村上ファンドの阪神電鉄買収事件だ。
「モノ言う株主」として一斉風靡した村上世彰氏率いる村上ファンドが2005年秋に阪神電鉄の株式を大量取得していることが発覚。一躍筆頭株主に名乗りを上げた。
阪神電鉄が所有する鉄道網、不動産とともに優良コンテンツとして挙げたのは、もちろん「阪神タイガース」だ。村上氏は阪神タイガースの株式上場案をぶち上げ、新たな球団経営の形態に迫ったが、「村上タイガースになる!」と扇動的な報道もあってファンは猛反発。聖域に手を出した村上ファンドは一気に旗色が悪くなった。
結局、翌年に阪急HDがホワイトナイトとしてTOBに乗り出し、阪神タイガースは守られることになるが、今思い返すと阪神ファンにとっては悪いことばかりではなかった。
渦中の2005年11月に阪神電鉄は対抗策として、立て続けに企業価値を高める発表をし、そのなかには甲子園の大改修も含まれていた。甲子園史における「21世紀の大改修」にあたる。
この改修は、2006年オフにポスティングでヤンキースに移籍した井川慶がもたらした「井川マネーの恩恵」とも言われるが、これによって甲子園球場は格段に快適となり、阪神タイガースは今も優良コンテンツであり続けている。
文=落合初春(おちあい・もとはる)