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セネタースの輪廻転生

 雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!


 毎年恒例となった、西武の歴史を今に伝える<ライオンズ・クラシック>。先日、2013年も開催決定というニュースを見て、僕はハッとさせられました。テーマが<東京セネタースと西武鉄道の物語>というものだと知ったからです。

 これまで、『伝説のプロ野球選手に会いに行く』では、東京セネタース創立メンバーだった苅田久徳さん浅岡三郎さんにインタビューしています。ゆえに俄然、惹きつけられたのですが、今回、ライオンズではなくセネタースのユニフォームが復刻されるとのこと。

 球団の歴史を伝える回顧イベントというのは、昔のユニフォームを復刻して試合で着用するだけではありません。<ライオンズ・クラシック>であれば、OBによる始球式があり、トークショーがあり、記念のグッズ販売や写真展示なども行われてきました。

 それでもやはり、メインは、現役の選手が身に着ける見慣れないユニフォーム。いい意味での違和感が、球史への興味のきっかけになり、先人たちを大事に考えることがより深く野球を観ることにつながる――。
 僕はそう考えてきたのですが、今回の復刻は従来の復刻を超えていると思います。

 セネタースと西武。すなわち歴史上、直接には関係のない球団のユニフォーム復刻。

 たとえば、2009年、MLBのシアトル・マリナーズが、傘下ではないマイナー球団のユニフォームを復刻したことがあります。かつてシアトルに存在した球団ということで、これはいわば、地元における野球の歴史を紹介するようなもの。

 その点、セネタースと西武の関係性にも共通項はあるのです。

 セネタースは、1936年、現在のNPBに連なる日本職業野球連盟が創設されたとき、連盟に加入した7球団のひとつ。当時の貴族院議員で、競馬の有馬記念にその名を残す有馬頼寧伯爵と、旧西武鉄道との共同出資で誕生しました。

 ですから、もともとセネタースと西武には縁があって、連盟による公式戦が始まった36年、旧西武鉄道は沿線の上井草に球場を建設(同年8月に落成)。

 この上井草球場は半ばセネタース専用となり、当時はまだフランチャイズ制ではなかったものの、チームの練習に使われ、選手たちの多くは球場周辺に住んでいたといいます。

 ちなみに、1937年9月に後楽園球場が完成すると、東京でのプロ野球は後楽園を中心に行われるようになって、以後、上井草球場はほとんど使われなくなりました。最後に公式戦が開催されたのは50年で、現在、球場の跡地は杉並区立上井草スポーツセンターになっています。

 さて、セネタースと西武との縁は、「沿線」だけではありませんでした。僕自身、創立メンバーの写真を見ていながら気づいていなかったのですが、セネタースのマークにはライオンが描かれているのです。

 <ライオンズ・クラシック>監修者の綱島理友氏が、<まるで運命で定められていたように、現在のライオンズにつながるライオンのデザインを配したユニフォームを着用>と書いているとおり。この符合にはゾクッとさせられました。


▲セネタースの選手たち(後列左から2人目が苅田さん、前列左から3人目が浅岡さん)。ライオンがデザインされた胸のマークに注目。


 しかも、ライオンズは、元はといえば西鉄のニックネーム。実はセネタースはこの西鉄とも縁があって、1940年、戦時下で英語の使用が自粛され、セネタースが翼軍と改称した後のこと。やはり戦争の影響で選手不足となり、41年には翼軍と名古屋金鯱軍とが合併して大洋軍となったのですが、翌年のシーズン終了後、この大洋軍を買い取ったのが九州の西日本鉄道=西鉄でした。

 こうして1943年、西鉄軍ができたわけですが、戦時下ゆえ、すぐに運営が難しくなってわずか1年で解散。そういう意味では、戦後に改めて誕生した西鉄は別の球団、ととらえることもできるでしょう。が、綱島氏はこうコメントしています。

 「西武沿線に本拠地を置いていた東京セネタースがやがて九州に移り、いったん中断ののち、西鉄ライオンズとして再生し、栄光の時代をへて、紆余曲折をへて埼玉西武ライオンズにつながっていく。これはまさに日本球界における輪廻転生の物語です」

 再生、そして輪廻転生――。言われてみれば、確かにそうとしか思えない球団の変遷。その始まりが1936年、日本プロ野球元年ということで、マークとニックネームの共通性まで含めれば、これほど意義ある復刻もないと思えます。

 ただ純粋に、懐かしさを感じさせるユニフォームの復刻。それはそれで、ファンにとって、とてもいいことです。一方で、あまり知られていなかった球史に光を当てるイベントが、もっとあってもいいのではないかと思います。

 ところで、セネタース創立メンバーですが、残念ながら、苅田さんは2001年に90歳で逝去されました。しかし、2010年にお会いした浅岡さんはご存命で、今年99歳と御長寿の上に、現在も上井草に近い西武新宿線沿線に住んでおられます。

 戦前、選手不足の時代だけに、1936年のセネタース入団1年目から、投手兼野手として活躍した浅岡さん。応召によって退団し、戦後は野球界から離れた方ですが、「今もときどきプロ野球を見てます」とうかがいました。

 できることなら、復刻されたセネタースのユニフォームを見てほしい――。そう願いつつ、今の球界に向けた浅岡さんの言葉を掲げておきます。

「戦後、よく立ち直りましたよね。わたしは戦後はノータッチですから、まったくわかりません。でも、だんだんとね、にぎやかになって、今のようになったことが、よかったな、と思うんです。そういう意味で、われわれが黎明期に関わったということは、唯一の、報いみたいなもんですかね。基礎があったから、今があるんじゃないか、ということです」


▲2010年取材当時の浅岡さん。現役時代は投手兼野手として活躍した。


※苅田久徳さん、浅岡三郎さんのインタビューは、文庫版“伝プロ”に収録されています。


<編集部よりお知らせ>
◎イベントのお知らせ
野球本の品揃えは日本一の古書店『ビブリオ』が中心となって、昭和20年代の野球を研究するイベントが開催されます。研究といっても、当時の野球雑誌を見ながら驚いたり、なにかを発見したりして楽しむことが主眼です。筆者も参加しますので、興味のある方はこのページをご覧ください。

◎お知らせ2
facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎No.003 2013春号』では中利夫氏(元中日)のインタビューを掲載している。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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