雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
往年の名選手への取材を通して、プロ野球の歴史を掘り起こしてみたい――。
『伝説のプロ野球選手に会いに行く』という企画は、そのような主旨で始まりました。今から15年前、1998年の8月、[名人]と呼ばれた苅田久徳さん(セネタースほか)にインタビューしたのが最初です。
『伝説』単行本のカバーに始まり、文庫版、さらにはこのコーナーのタイトル画像でも写真で登場している苅田さん。プロ野球黎明期から名二塁手として活躍し、セカンドというポジションの重要性を初めて日本野球に知らしめた方です。2001年に90歳で亡くなられましたが、生前、お会いしたのは87歳のとき。僕は一期一会のつもりで臨みました。
ご高齢の方に貴重なお話を聞きに行くのだからと、ごく自然に、生涯に一度しかない機会と心得ていたのです。歴史の生き証人を目の前にして、緊張していたこともあるでしょう。苅田さんはお元気でしたが猛暑に参っていて、「もう少し涼しくなった頃、秋にもう一度会おう」と有難い言葉もいただいたのですが、この取材はこのとき限り、という思いでいっぱいでした。
以来、往年の名選手に取材するたびに「生涯に一度」と思いながら、実際に再会を果たした方も何人かいます。
たとえば、まさに苅田さんが亡くなったあと。ある雑誌編集部から「追悼記事を作りたい」と依頼を受け、二塁手として苅田さんを師と仰いでいた千葉茂さんに二度目の取材をしました。
最近では関根潤三さんに再びお会いしましたが、図らずも一昨年に二度目、今年になって三度目の面会となった方がいます。[400勝投手]の金田正一さん(元国鉄ほか)です。
『伝説』の取材で金田さんに初めてお会いしたのは1999年10月。
それから12年後に野球雑誌の取材で再会となったとき、12年前に僕が書いた記事の内容をしっかり憶えていたことにまず驚かされました。しかも話が進むうちに僕のことを思い出されたようで、ひとり密かに感激。
一昨年の二度目の取材は、シーズン防御率1点台を記録した投手がテーマでした。金田さん自身、1点台を7回も記録できた要因はなんだったのか、率直にうかがってみました。
さらに三度目の取材テーマは、投手の打撃論。金田さんはバッティングにも長けていて、投手として日本最高の通算38本塁打を放ち、そのうち2本を代打で記録しているのがすごい。ある意味では、防御率よりも興味深いテーマと言えます。
一方でこのテーマは、日本ハム・大谷翔平の“二刀流”挑戦を受けて、その是非を問う意味もありました。金田さんにも是か非かをうかがったところ、“二刀流”には断固反対。その理由はここでは詳細に触れませんが、ひと言で言えば、「ケガの危険度が高く、どちらも中途半端になるのが目に見えている」から。
たとえば、投手として先発して、完投したとします。その翌日以降に野手として出場となれば、相応の練習が必要になります。
――果たして、高校を出たばかりの新人にそこまで練習する体力があるだろうか。ワシにはあるとは思えない。完投したらどれだけ体力を消耗するか、指導者も本人もわかっているのか――
金田さんはそう疑問を投げかけつつ、もしもどうしても両方でやるなら、まず投手として何年か投げて、とことん体を鍛えて、その上で野手に転向すればいい、と述べていました。投手として体を鍛えることが、バッティングの向上につながるからだそうです。
そして、金田さんはひと通り話をしたあと、「大谷にこれを見せてやりたい。二刀流に対するワシの答えもここに書いてある」と言って、背後の壁を指差しました。
取材が行われた、金田さんが経営する会社の事務所の壁。畳一畳ほどの巨大な額におさめられていたのは、詩人のサトウハチローが書いた<金田正一投手におくる詩>でした。「読んでみなさい」と言われ、すぐさま立ち上がって肉筆の言葉を目で追っていきました。