27歳のオールドルーキーとしてプロの世界に飛び込んだ武田勝。プロ入りに至るまでは長い道のりだった。
関東一高の監督・小倉全由氏(現・日大三高監督)の誘いを受け、武田は愛知出身ながら同校へ進学。1年時には控え投手として甲子園に出場。その後、東都大学リーグ2部の立正大を経て社会人野球のシダックスへ進む。
シダックスでは監督兼GMを務めた野村克也氏、臨時コーチを務めた高橋一三氏と元プロから指導を受け、2003年に都市対抗野球準優勝に貢献。武田は引退時に「プロで生きていける基礎を教わって感謝している」と当時を振り返っている。
順調に活躍し続けた武田は、2005年のドラフト会議で日本ハムから4位指名を受け、入団。背番号は「38」。引退まで背負い続けた番号だ。
ルーキーイヤーの2006年から武田は頭角を現す。開幕1軍入りを果たすと、開幕2戦目の楽天戦では先発投手が負傷交代したため、急遽プロ初登板。その試合で3回1/3を無失点に抑え、シダックス時代の恩師でもあった楽天・野村監督(当時)の目の前でプロ初勝利を挙げる。
この年は先発、リリーフの両方で躍動し5勝を挙げた。日本シリーズでも先発し勝ち星も挙げるなど、充実したプロ1年目となった。
2007年は、開幕はリリーフとして迎えるも、5月から先発ローテーション入り。防御率も2.54と安定し、初めて規定投球回をクリア。9勝を挙げた。2008年はシーズン序盤で負傷し離脱するも、復帰後は安定した投球を見せる。2009年は10勝を挙げ、自身初の2ケタ勝利を達成。2010年はチームトップの14勝を挙げ、防御率はリーグ2位の2.41とキャリアハイの成績を残す。2011年、2012年も2ケタ勝利に加え防御率2.50以内と活躍した。
2013年には自身初の開幕投手を務めたが、その試合で左ふくらはぎの筋挫傷を負って降板。1カ月後には復帰するも、大量失点して5回持たずにKOされる試合が増え、持ち前の安定感のある投球ができなくなっていく……。結局、2ケタ勝利、規定投球回到達が途切れてしまった。
この年を境に武田はスランプに陥る。2014年、2015年と安定した活躍ぶりは影を潜め、今季は9月途中まで1軍登板すらできなかった。
武田は今季、38歳を迎えていた。プロ入りした時に掲げた「自分の背番号(38)と同じ年齢までプレーする」という目標は達成できた。今季は新人王を獲得した高梨裕稔、有原航平と若手投手の台頭。それらが絡み合った結果、武田は9月23日に引退を表明した。
引退を表明した日、武田はあの言葉を日本ハムの選手達に残す。「俺のために優勝しろ」。そう書いた紙を武田はベンチの壁に貼り、チームを鼓舞。その5日後、日本ハムはパ・リーグ優勝を決めた。
9月30日のロッテ戦が武田の引退試合となった。引退セレモニーで武田は「俺のために日本一になれ」と叫んだ。
武田はクライマックスシリーズ、日本シリーズでは裏方として同行。チームのサポート役に徹した。そして、10月29日、日本ハムは10年ぶり3回目の日本一を達成した。栗山英樹監督の胴上げ続き、選手たちは武田を胴上げした。
武田の言葉に応えた選手たち。武田の想いが実った瞬間だった。このシーンは多くの野球ファンの感動を誘ったに違いない。
日本シリーズ優勝から半月が経った11月中旬、来季から武田は日本ハムのフロント業務に就くことが決まった。また、ルートインBCリーグ・石川ミリオンスターズでコーチを兼任することとなった。独立リーグで若い選手たちを指導することは貴重な経験となるはずだ。
来季から阪神のファーム育成コーチを務める藤井彰人氏のようにNPB球団からコーチとして独立リーグに派遣された事例はあるが、フロント業務を担いながら派遣されるのは武田が初めて。
武田はチームからは将来の指導者としてだけでなく、フロントのスタッフとしても大きく期待されているのだ。
平均球速が130キロに満たないストレートとスライダー、チェンジアップ、シュートを投げ分け、パ・リーグの強打者を相手に通算82勝を積み重ねた武田。明るいキャラクターで選手はもちろん、ファンからも愛された。
引退セレモニーでは「僕はファイターズが大好きです。僕は北海道が大好きです」とも語った。このまま第二の人生でもファイターズ一筋を貫いてもらいたい。
文=山岸健人(やまぎし・けんと)