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【野球の神様】ベーブ・ルースはなぜ日本にやって来たのか?【ここからプロ野球が始まった】

 親善試合を含めて、8年ぶりの日米野球2014は幕を閉じた。今年は、日本プロ野球80周年の節目の年にあたるが、そもそも振り返れば、80年前の1934年、日本でプロ野球チームが結成されるキッカケを作ったのが日米野球だった。メジャー選抜を迎えるにあたって結成されたチームが母体となって、今の巨人の前身、大日本東京野球倶楽部が生まれたのだ。

 そう考えると、日米野球こそが「日本プロ野球の母」であると見ることもできる。そして、その日米野球を成功にもたらした人物こそ、メジャーリーグ史上最高のスーパースター、ベーブ・ルースであることは間違いないだろう。だが、この1934年の日米野球において、ルースが来日するかどうかは大きな賭けだったという。そこにはどんな思惑があったのか? 日米、双方の「舞台裏」を検証してみたい。



「ベーブ・ルース来日」に活路を見出そうとした読売新聞


 ルースが来日した日米野球は1934年秋の出来事。だが、それ以前から、来日へ向けての説得は何度も行われていた。特に、ルースがシーズン60本塁打を達成した1927年以降は、野球が盛んになりはじめたばかりの日本でも「ベーブ・ルース」という単語には相当なネームバリューがあった。

 その威を借りて販促活動をしようとしたのが読売新聞だった。当時は報知新聞の発行部数が80万部に対して、読売新聞が20万部。夏の甲子園で人気の朝日新聞、春のセンバツで人気の毎日新聞とも大きな開きがあった。だからこそ、朝日、毎日、報知がそれぞれ企画しても実現には至らなかった「ベーブ・ルース来日」を実現させようと動いたのが、読売新聞社社長の正力松太郎だった。

 1929年、正力は報知新聞の客員だった池田林儀に頼み、ルースに来日を依頼する電報を打った。だが、この年のオフ、ルースは映画に出演することが決まっていたため、日程的に不可能だった。その後も読売新聞は毎年のようにルース来日計画を立てたが、予算面で折り合いがつかなかった。

後に引けなくなった「ベーブ・ルース来日」の飛ばし記事


 ルースの招聘は叶わなかったが、読売新聞は1931年にMLB選抜チームを招き、日米野球の開催にはこぎつけた。このときのメンバーには“鉄人”ルー・ゲーリッグや“剛腕”レフティ・グローブら大物選手が含まれ、全17戦行われた試合は、各地で大いに盛り上がりを見せた。

 そして1933年冬、まずは翌年に読売新聞主催の第2回日米野球の開催と、監督をアスレチックスで指揮をとっていたコニー・マックが務めることだけが決まった。ただ、来日メンバーは全くの白紙で、アスレチックスが単体で来日する可能性もあった。

 ここで交渉に当たったのが読売新聞運動部嘱託だった鈴木惣太郎。鈴木はコニー・マックを通じてオールスターチームの来日と、その中にルースも含めるよう、何度も交渉に当たった。一方で読売新聞はまだ何も決まっていないのに、1934年7月18日に「ベーブ・ルースの来日」を報じた。完全な「飛ばし記事」だったが、これで後には引けなくなった鈴木は日米野球開催の2カ月前、9月15日横浜出航の船でアメリカに向かった。

交渉場所は理髪店


 鈴木はカナダを経由し、9月29日にニューヨークに到着。早速関係者と訪日メンバーの打ち合わせを行ったが、この時点でもルースの参加は決まっていなかった。そして迎えた10月1日の朝10時。鈴木は、ルースが理髪店にいる、という情報をキャッチ。すぐに現場に向かった。

 だが、ルースの機嫌は悪かった。会うやいないや、「日本へは行かない」と宣言した。必死に説得を試みるも、ルースの気持ちは変わりそうにない。鈴木も「もはやこれまでか……」と観念しかけたが、ここで戦法をガラリと変えてみた。日本から持ってきたある“モノ”を見せたのだ。それこそ、ルースの顔を大きく描いた日米野球の宣伝用ポスターだった。

 「あなたのポスターは、もうできているのです」と懇願する鈴木。そして、ポスター以外にもルースの顔が大きく描かれたジャンパーなどを持ち出し、日本のファンがどれだけ待っているかをもう一度説明した。そして、ポスターに描かれた自分の顔を見て笑い出したルースは、「よし、日本へ行く」と言いきったのだ。

ルースにとっての日米野球の意義


 と、ここまでは日本側から見た、ルース来日決定の要因だ。だが、アメリカ側、ルース側からすると、また違った狙いがあったという。

 1934年、それはルースのニューヨーク・ヤンキース最後の年だった。この年のルースは本塁打22本、打率.288という数字でシーズンを終えた。本塁打が30本に届かなかったのも、打率が3割に届かなかったのも、ヤンキースに移籍してからは、体調不良で出場試合数が限られた1925年以外では初めてのことだった。

 依然としてルースはメジャーリーグのスーパースターだったが、明らかにキャリアの最晩年を迎えていた。そこでルースが考えたのは、ヤンキースの監督になること。だが、ヤンキースはジョー・マッカーシー監督と契約を延長したばかりで、その夢は叶いそうになかった。では、他チームで現役を続けるか、他チームの監督になるか……どちらの場合でも、落ち目と思われていた評価を覆し、「ベーブ・ルースここにあり」を広くアピールする必要があった。つまり、日本からの使者は、まさに渡りに船だったとも考えられるのだ。

ベーブ・ルース、最後の輝き


 実際、ルースは日本への13日間の渡航中、船上で誰よりも厳しいトレーニングを積み、万全の体調で日本にやって来た。さらにはメジャーリーガーはただ野球が上手いだけでなく、誰よりも紳士であることを率先して演じるキャプテンシーも発揮した。

 それは、ルースの来日を待ち望んだ日本のファンのためであると同時に、自分のため、アメリカで報道を受けるメジャーリーグ関係者たちへの必死のアピールでもあったのだ。

 翌1935年、ルースが選んだ道は、ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)での現役続行。しかし、このシーズン、ルースは走攻守、どれをとってもメジャーレベルの力を発揮することはできず、打率.181、6本塁打というキャリア最低の数字を残し、現役を引退した。

 ここからわかることは、日本中がルースの活躍に湧いた1934年の日米野球こそ、“野球の神様”ベーブ・ルースが最後に輝いた瞬間だった、ということだ。ルース来日から80周年の節目にあたる2014年こそ、そんな日米野球の歴史と意義について改めて考えみる絶好の機会なのではないだろうか。

※参考文献:『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』(波多野勝・著、PHP新書)、『日米野球覆面史』(佐山和夫・著/NHK出版)

(文=オグマナオト)


(2014年11月13日/gooニュース配信)
http://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20141113141709812.html

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