突然の訃報だった。それは、阪神タイガースGM中村勝広さんの急逝を伝えるニュースであった。
その知らせは、くしくも阪神が東京ドームで宿敵巨人と激闘をしている最中に電撃的に伝えられた。中村勝広さんを偲ぶとともに、ファンから「カッチャン」の愛称で親しまれた現役時代、そして監督時代を振り返ってみた。
「1番セカンド中村、背番号14」
虎の核弾頭として活躍した現役時代、そのシュアなバッティングは、私の脳裏に今も鮮明に残っている。
これを裏付ける、1つのエピソードを紹介しよう。
当時の打撃投手に聞いた話しであるが、中村は試合前の打撃練習で1対1の真剣勝負を望んできたことがあった。
通常打撃練習は、選手がいいイメージを持って試合に望めるよう、打ちやすい球を投げる。しかし中村は違った。
「まっすぐでも、カーブでも、思いっきり投げてこい!」
そして、いとも簡単にヒット性の鋭いライナーを打ち返してきたというのだ。
「練習から真剣勝負で望まないと試合では打てない。」
中村勝広の信念であった。
監督時代の中で最も印象深いのは、1992年9月11日、プロ野球最長記録6時間26分の死闘を繰り広げた「八木の幻のホームラン」として知られるあの試合だ。私はこの日、3塁側特別内野席(オレンジシート)で戦況を見つめていた。
9回裏八木裕の放物線を描いた打球は、オーバーフェンスしたように思えなかったが、ボールはグラウンドには落ちていなかった。
責任審判の平光清2塁塁審は、ホームランを宣告するも、ヤクルト野村克也監督が、「俺は絶対に折れない!」と平光に詰め寄った。
中村監督も判定を覆すことはルール違反だとして、平光の説得を受け入れなかった。
中断時間は37分。ファンは中村監督を信じ、じっと待った。そして、これはあまり知られていないが、ウェーブが甲子園球場のスタンドを何度も何度も回った。
中村監督も野村監督も自らの進退をかけて長時間に渡る抗議を続け戦っていた。平光は後に責任を取り、この試合を最後に審判の職を退いた。
現役時代そして監督時代、熱い想いをグラウンドに捧げた中村勝広さんのご冥福をお祈りするとともに、その勇姿を近くで見続けられたことに感謝したいと思う。
文=まろ麻呂