プロ野球ファンはこの事件を他山の石としてとらえていいのだろうか。過剰に反応すれば、近鉄の代名詞で今もオリックスに引き継がれる「いてまえ打線」の「いてまえ」も同様のニュアンスがあるといえるだろう。
これは揚げ足取りの次元だが、もっと槍玉に挙がりそうな文言もある。「くたばれ読売」だ。
プロ野球創成期から球界の盟主としての役割を担い、憎たらしいほど強い巨人にはいつだって羨望と嫉妬のまなざしが向けられてきた。他球団のファンであれば、すなわちアンチ巨人であるのが一般的。長い歴史の中で醸造された一種の日本プロ野球文化である。
その最たる具現が「くたばれ読売」の文言だ。特にヤクルトの応援歌である『東京音頭』とは相性がよく、「東京ヤクルト」と歌う部分が「くたばれ読売」と言い換えられている。
神宮でのヤクルト戦では、巨人が対戦相手ではないにも関わらず、各球団のファンが少なからずそうした替え歌で盛り上がっており、当事者のヤクルトファンですら「くたばれ読売」と歌う者もいる(ヤクルト応援団は「東京ヤクルト」と歌いましょうと喚起してはいるのだが……)。
オールスターゲームでのラッキーセブンには各球団の応援歌がメドレーで流れるが、これも強烈。『東京音頭』がはじまると、11球団のファンから「くたばれ読売」の大合唱が起こるのが通例だ。
一昔前は一段と過激だった。甲子園の阪神対巨人戦、元木大介(元巨人)が打席に立つと、巨人ファンの元木コールに合わせて、阪神ファンが「アホ、ボケ、帰れ」の大合唱。
スタンドの入り口には踏み絵のごとく、大量に巨人の選手の野球カードが撒かれ、「○○〜、六本木に帰れ! お姉ちゃんがムチ持って待っとるぞ!」など、過激なヤジのオンパレード。当時、小学生だった筆者は大いに悪影響を受けた。その当時を思えば、現在のアンチ巨人は幾分か柔和になってきたとも思える。
それでも未だにアンチ巨人過激派は残存している。巨人のマスコットである「ジャビット」の人形にヒモを付けてひきずり回すヤンキー風ファンが代表的だ。
過激なアンチ巨人でありながら、そのジャビット人形を購入して巨人にお金を落としたという皮肉な面白さもあるが、そうした過激な行為に対しては近年、一般紙などでも苦言が呈されるなど反感が高まっている。
近年では他球団ファンのなかにも「くたばれ読売」の自粛・自浄を求めるハト派が増えてきた。
確かに「くたばれ読売」は汚い言葉である。「子どもたちの夢」という正義を持ち出されると、はかなく消え去ってしまいそうな危うさすらある。一度、堰を切れば、あとはなし崩し。官軍様の正論が襲い掛かり、「愛情の裏返しでもある様式美」という論理では太刀打ちできないだろう。
しかし、本稿で言いたいのは「くたばれ読売をやめるべきだ」という野暮ではない。過激すぎる行為は確かにあるが、スポーツは戦いの場だ。血沸き肉躍る闘争心、強大なライバルの存在がプロ野球を熱くさせてきたことを忘れてはならないだろう。正論ではないが、そこには熱量がある。
そして、ひとりのアンチ巨人として、そのライバルの座を長年担っている巨人は素直にすごいと思えるのだ。「くたばれ読売」と言われようが、涼しい顔でスルーできる。叩かれ慣れているという表現が正しいのかはわからないが、常に巨人ファンは我が道を行く「ジャイアンツワールド」のなか。余裕があるのだ。
神経質な社会において、「くたばれ読売」が守られているのは盟主たる巨人、そして巨人ファンの寛容さがあってこそだ。
「くたばれ読売」の是非やスポーツマンシップは一度棚上げにして、巨人や巨人ファンの堂々たる姿に敬意を表したい。アンチを受け入れる器の大きさもまた、最大のライバル・巨人の恐ろしさなのだ。
文=落合初春(おちあい・もとはる)