朝晩の冷え込みが一段と増し、季節は本格的な秋。今年は球界を代表する看板選手が次々と引退を表明し、時代の流れを感じさせる季節となっている。
1990〜2000年代の球界を盛り上げ、ファンから愛された彼らはどうやって1軍で芽を出し、プロの世界を生き抜いてきたのか。引退選手たちの若手時代、ターニングポイントを振り返ってみたい。
≪1988年ドラフト1位 江の川高≫
プロ27年、約3000試合に及ぶ捕手人生を全うした谷繁。高校時代には通算42本塁打を放ち、打てる捕手として注目を集め、大洋に1位指名され入団した。
高卒の捕手といえば、長期間の育成期間が必要と思われがちだが、谷繁は即戦力だった。オープン戦から持ち前の打力がプロで通用することを証明すると、古葉竹識監督の目に留まり、高卒1年目からいきなり1軍デビュー。
打率.175、3本塁打、10打点と奮わなかったものの、1軍での帝王教育が施され、1993年、球団名が大洋から横浜に変わり、チームの変革がはじまると、秋元宏作から正捕手の座を勝ち取った。
当時の谷繁は守備・リードの評価はまだまだで、佐々木主浩のフォークが止められず、秋元をリリーフ捕手に送られることもしばしば。しかし、不屈の努力で弱点を補い、1998年のリーグ優勝時にはゴールデングラブ賞を獲得するまでに成長していった。
≪1996年ドラフト4位 神戸製鋼≫
現在は外野手のイメージが強い和田だが、西武入団当時は捕手だった。しかし、当時の西武には伊東勤、中嶋聡という名捕手が二枚揃っており、和田は自慢の打撃を生かすため、内野手や外野手にも果敢にチャレンジ。
2000年にはリザーブながら打率3割を超え、翌2001年は松坂大輔と開幕バッテリーを組み、またもや打率3割を打ったが、やはり出場機会は絞られていた。
転機となったのは2002年。伊原春樹監督が就任し、自身も30歳となるこの年、和田は捕手への未練を捨て、外野手一本で生きることを決意。「俺の武器はバットだ!」といわんばかりに、打率.319、33本、81打点を叩き出し、30歳にしてスラッガー街道を切り開いた。
≪1996年ドラフト3位 NTT関東≫
和田と同じく捕手として入団した小笠原。転機は入団2年目の1998年だった。左手人差し指を骨折して戦線離脱していた小笠原は、完治する前に代打で強行出場し、痛みをこらえながらも代打本塁打。「小笠原には“ガッツ”がある」というイメージが定着した。
この気合いの一発は、昭和のパ・リーグを生き抜いてきた上田利治監督に高く評価され、翌1999年には2番・一塁手のレギュラーを獲得。「恐怖の2番打者」として、スター街道に乗った。
ちなみに「ガッツ」という愛称は、チームメートだった岩本勉、片岡篤史らの命名。合コンで女性に“がっつく”ことから「ガッツ君」という不名誉なあだ名だったが、骨折本塁打を機に「ガッツ君にはガッツがある」と栄転したという。本人の活躍がなければ、ただのやらしい「ガッツ君」で終わっていたかも知れない!?
≪1996年ドラフト2位 天理高≫
右打ち、バントなどの小技も利き、ここ一番の勝負強さから「代打と神様」としても重宝された関本。高卒入団で、1軍初出場は2000年。長い下積み時代があった。
入団当初の阪神は暗黒時代。186センチの関本はファンや首脳陣から「和製大砲」と目され、濱中治とともに未来の4番を担う逸材といわれていた。
しかし、関本は自分の可能性を小技に見出していた。その才能が開花したのは2004年。周囲が求める和製大砲の声を封じ、バットを短く持つスタイルを確立すると、110試合で打率.316をマーク。2006年には33犠打を記録し、バントの技も見せると、いぶし銀としてチームの主力に定着した。
自分の力をどう生かすか。周囲の期待や声に惑わされず、自分を見つめ、技を磨き続けた結果が19年のプロ生活に結びついた。
文=落合初春(おちあい・もとはる)