2003年から2009年までの通算7年間、千葉ロッテマリーンズに在籍し、主に中継ぎピッチャーとして1軍で活躍した神田義英氏。彼は昨年から郷里の香川県で、少年野球チームの監督として6人の子ども達と一緒に、第二の人生を歩み始めた。
神田氏は1979年生まれの36歳で香川県高松市出身。高校時代は地元の強豪校、高松商業のエースとして春夏連続で甲子園にも出場した。
卒業後は川崎製鉄水島に進むと、社会人野球6年目の2002年。ドラフト会議で4巡目に指名され、悲願だったプロに。24歳の遅咲きデビューだったが、1年目から6年連続で1軍に登録され、計79試合に登板した。
プロ晩年にはトライアウトも経験。最後は社会人野球の西濃運輸で選手生活を終える。
現役を引退した2011年の暮れに、生活の基盤を地元に移した神田氏。それまでの野球漬けの日々から離れたい一心の帰郷だったという。
「野球を辞めてから、食べて飲んでゴルフばかりしていましたよ」
笑顔で当時を振り返るが、幼い頃からのたった一つの支えを失った生活は荒んでいたという。新たな仕事のオファーが届かなかったことも拍車を掛けたのかも知れない。
そんな折、懇意にしていた同じく元プロ野球選手で、オリックスや楽天に在籍した高橋浩司氏が代表を務める少年野球スクールのコーチを手伝うことになる。遠ざけたはずの野球だったが、子ども達を教えることに熱くなってしまう。
「ボールも投げられない、バットも振れない子ども達が楽しく野球をやって、上手くなっていく。それがとても嬉しかった。選手時代に自分が勝ったり、上手くなったりしたときよりも」
子ども達の「上手くなりたい」というひた向きなプレーを目の当たりにした神田氏。野球を始めたばかりの小学生たちは、元プロ野球選手にあらためて野球の面白さを気づかせ、その素晴らしさを再認識させることになった。
神田氏は周りからの後押しも手伝って独立し、昨年の6月に「神田義英ベースボールスクール」をスタート。「勝つことではなくプロになることを目標に、正しい技術を身につける」ための練習を信条とする。
神田氏自身も指導者として成長するために、学生野球に携わるための資格を回復。地元のケーブルテレビ局で独立リーグを中心に野球中継の解説も担当するなど、精力的に視野を広げる。
「子ども達が少しでも納得、理解して練習に取り組むために。あらゆることを吸収して、教える精度を高めたい」
先日、高松商業が秋季四国地区高校野球大会の準決勝で済美高(愛媛)を破り、神田氏が在籍していた時代以来となる、20年ぶりの甲子園出場が濃厚になった。
その翌日、スクールの練習会場を久しぶりに訪れた。
神田氏は現在、「神田義英ベースボールスクール」に加えて、2015年4月からは「かがわ中央リトルシニア」の監督も担当。両スクールで、小・中学生合わせて30人以上を精力的に指導する。
また母校の高松商業野球部にも定期的に訪問。ピッチャーを中心に、自身が現役生活で吸収したノウハウをグラウンドで惜しみなく伝える。
「選手が本当によくやった」と話す済美高との大一番は、エースの踏ん張りが原動力となって勝利をたぐり寄せた。背景には、神田氏の指導の影響が確実に潜む。
「野球を通じて地元に恩返しが出来れば。そして、いつの日か自分が教えた子ども達の中からプロ野球選手が誕生して欲しい!」
神田氏が育む夢の種は、しっかりと成長している。第二の野球人生は、現役時代よりも遙かに長くなりそうだ。
文=和田雅幸(わだ・まさゆき)
2つの地元タウン情報誌の副編集長を経てフリーに。以後、記事や広告を問わず、さまざまなメディアやツールの制作を担当。企画段階から携わることも多い。ビール付きの野球観戦が人生一番の楽しみという昭和気質。