前田三夫。帝京高校監督。1949年生まれ。今夏の甲子園へ向けた東東京大会が始まる頃、前田は67歳になる。1970年代後半にいちから作り上げたチームで甲子園に乗り込み、10年ほどで「東の横綱」の座についた血気盛んな青年監督は今、現役高校野球監督最古参のひとりとなった。たびたび「悪役」「ヒール」と非難されても釈明せず、自分の思う信念を(迷いのなかで)貫いてきた。まごうことなき昭和の頑固親父、絶滅寸前となった古いタイプの男である。
前田が帝京の監督になったのは22歳。1972年1月、大学4年生の時のことだ。前田は木更津中央(現木更津総合)を経て進んだ帝京大野球部では一度もリーグ戦に出たことのない下手くそな選手だったという。「やることがない」から母校の練習を手伝っていたところ、運良く監督の座が空席となりお鉢が回ってきたというわけだ。
部員を前にした前田は言った。「俺が甲子園に連れていく!」。当時の帝京は甲子園を夢見ることもない普通の野球部。部員たちは大笑いした。頭に血がのぼった前田はスパルタの猛練習を課す。3週間後。30名ほどいた部員は4人になっていた……。
しかし、頑なな思いは無理矢理甲子園への扉をこじ開ける。バッティングケージひとつなく、サッカー部と狭いグラウンドを分け合う悪条件をものともせず、就任3年目の1974年秋には都大会で準優勝。1975年春には優勝。1977年の秋には準優勝を成し遂げ、翌1978年にセンバツ初出場を果たすのだ。1989年にはエース・吉岡雄二を擁して甲子園初優勝。以来、春夏通算で優勝は3回、準優勝は2回を数え、歴代3位の51勝を積み上げてきた。
前田の野球はパワーとスピードで圧倒的する一方、「勝つためには手段を選ばない」と揶揄されてきた。ラフプレー上等とばかりに乱暴なプレーを臆せずにやった。勝つんだ! 強ければいいんだ! 勝利への執念は批判に揺らぐことはなかった。いつしか甲子園きってのヒールと呼ばれるようになっていた。スパルタの根性論が当たり前とされ、ぎりぎりのラフプレーが「上手い」と言われていた時代だった。が……。1995年を境にターニングポイントが訪れる。
1995年、激しい練習に嫌気がさしたレギュラー3年生3人が、夏を前にチームを離れた。迎えた東東京大会では「控えの投手に経験を積ませるため」とコールド勝ちとなるランナーを三塁にとどめおき非難された。優勝候補として乗り込んだ甲子園ではラフプレーにブーイングが起こった。周囲の白い目に囲まれながら手にした優勝には冷え冷えとした空気が漂っていた。帝京の優勝にスタンドはしらけた。縦縞のユニフォームは憎まれっ子として甲子園を去った。
1983年春に「東の横綱」として初優勝を狙うも、1回戦で蔦文也監督の池田に大敗した時には監督の風格の差、パワーの差に愕然としたが、へこたれることはなかった。「よし、やってやろう。いちから土台を作り直そう」といった気持ちに燃えていたことだろう。
しかし、この時は違った。何をすればよいのか迷った。「勝たせてやる!」というスタンスを控え、選手の自主性を重んじるように方針転換した。そうして臨んだ1998年の夏……。前田の心を決定的に凍てつかせる出来事が再び起こった。2回戦で敗れた選手たちが涙ひとつ流さずに「やっと終わった」と喜んでいたのだ。どんなに非難されても曲げなかった心にひびが入った。何があっても胸のうちに収めて我慢できたが、耐えきれぬすきま風が吹いた。勝てばいいんだという男が、野球を見失った。この年の秋、前田は初めて休暇を取った。
強いだけではダメだ。みんなに応援されるチームを作らなければ……。
私の高校時代からの友人にI君という男がいる。埼玉県大宮育ちの彼は中学時、野球部に属していた。大宮の中学野球で評判だった1学年上の主将は帝京に進んだが、球拾いで3年間を終えたという。片や、その野球部にはキャッチボールも満足にできないが練習をまったくさぼらない同級生のチームメイトがいた。そのチームメイトはもちろん試合に出たことはない。よくある話だ。
僕とI君が代ゼミの講習に身が入らない日々を過ごしていた高校3年の夏、1988年に浦和市立という無名の公立校がベスト4に勝ち進んだ。前年の準優勝校・常総学院、強豪・宇部商などを次々と破る快進撃に、「さわやか」「はつらつ」という文字が新聞に踊った。I君は言った。「この前、甲子園を観てたら、あいつが浦和市立のベンチにいたんだよね……」。あいつとはキャッチボールもできない同級生のことである。私もテレビで次の浦和市立の試合をチェックした。ダグアウトが映し出されて、すぐにわかった。小柄で、一見しただけで下手くそなムードがビシビシ漂っていた。彼は笑っていた。センチメンタルな気持ちでI君に伝えた。「なにが幸せなのかわかんないね」。前田が念願の甲子園優勝を果たす前年のことである。
話を1998年に喫した前田の敗戦に戻そう。「作ってもいいから、自分のスタイルを貫くことが大事」。「強いチームの原点は負け。負けて、そこから立ち上がらないと強くなれない。だけど、いつどこで負けるかが難しい」。前田の言葉であるが、この負け方を前にして、勝ち負けの意味も、自分のスタイルもわからなくなっていた。
休暇をとった前田が、ワラをもすがる思いで回復の地に選んだのはアメリカ。ワールドシリーズ観戦だった。全力プレーのメジャーリーガーをスタンディングオベーションで奮い立たせる観客たち。心の氷がとけていった。「正々堂々と戦おう。勝っても負けても観ている人が応援してくれる、感動してくれるチームを作ろう」。49歳にしてそう思った。
2006年夏の準々決勝。その思いは名試合を生む。相手は智辯和歌山。劣勢の9回表に8点を挙げ4点差をひっくり返すも、投手を使い果たした9回裏に5点を奪われ12対13でゲームセット。終盤、突如動いた死闘にスタンドはスタンディングオベーション。ふりそそぐ拍手のなか、前田は男泣きしていた。
「勝たなくてはいけない」。「勝つことでしか得られないものがある」とよく言われるが、勝敗の意味とは何なのか。最初からその答えをわかっている者はいない(おそらくは最後までわからない……)。やり続け、その都度の思いがあるだけだ。これでいい、と。
移り変わる時代気質のなかで、ひとりずつ違う高校生を相手に迷いのなかやってきた。スタイルは貫く、と鼓舞しながら。一国一城の主には言い訳や愚痴は許されない。言いたいことを口にしても本心は伝わりにくいだろう。潰れていった高校生を思えば、涙も許されない。孤独だ。逆境に「こんちくしょう」と踏ん張るしかない。男の顔にはシワが深く刻まれ、人間くさい表情となる。大工の棟梁、漁師のおやじ。前田にはそんな言葉がぴったりとくる。
最近、帝京は甲子園から遠ざかっている。スパルタのイメージが時代のムードに敬遠されているのだろうか。一昨年の夏は東東京大会の決勝で延長の末に敗れた。今春の都大会でも準々決勝を延長で落とした。前田の神通力はなりを潜めてしまったのか。120キロで爆走するブルドーザーのようなかつてのパワースタイルに、前田が掴んだ人情を乗せた帝京の姿を甲子園で観てみたい。
(敬称略)
■著者プロフィール
山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。