糸井嘉男、T−岡田ら外野陣に割って入るレギュラー候補としてオリックスが獲得したのは大学日本代表の4番打者。ここ一番の勝負強さは折り紙つきの長距離砲は、ライバルたちに刺激されながら才能を伸ばした。
第1回「オリックスが獲得を決めた瞬間」
加藤編成部長だけでなく、他球団のスカウトも「守備も、1軍のレギュラーと比べて遜色のないものになった」と声を揃える。
特にその印象を残したのが、ユニバーシアードの壮行試合として6月に行われた大学日本代表対NPB選抜との試合だ。
前述したように本塁打でも、大いにアピールができた試合だったが、左翼手を務めた守備でも、初回のピンチで本塁へ好返球し二塁走者を刺すと、8回には左翼線を破るかと思われた長打コースの打球を横っ飛びで好捕し、チームに流れを呼び込んだ。
送球については、高校1年時に右肩を故障したこともあり、球質の改善には長らく取り組んできたという。「大学日本代表の合宿で江越さん(大賀/当時駒澤大、現阪神)の送球を間近で見たり、社会人の練習に参加させていただいたときに指導をしていただいて、“肩が強い”といわれる選手がどういう投げ方をしているのか、つかめました。首を少し傾けて投げることにより、腕やヒジがスムーズに出るようになったんです」
また4年間、吉田を見てきた青山学院大の善波厚司監督も「守備、そして走塁の意識も上がりました。様々なことを学んでいるのだと思いますし、特に大学日本代表の合宿から帰ってきた後は、毎回よくなっていますね。日本代表さまさまです」と笑う。
守備でもどん欲な姿勢を見せ、能力を高めてきたことも、「打つだけの選手ではない」とスカウトに感じさせ、プロ球団からの最高評価を勝ち得た大きな要因のひとつとなった。
兄の練習の送り迎えに連れて行かれるうちに野球を始めていたという吉田は、小学校2年時から最上級生に混じって試合に出場するなど、早くからその非凡な才能を発揮していた。
また中学時代に所属していた鯖江ボーイズでは元巨人捕手の李景一監督(当時)から「プロに行くという強い気持ちを持っておけ。高校に入ってからが勝負だぞ」と言われていたこともあり、プロの世界をその頃から意識していた。
そして進んだ敦賀気比でも1年夏と2年春に甲子園に出場。順風満帆かのように思えた。
しかし、2年夏に3季連続の甲子園出場を逃すと、2年秋の北信越大会で釜田佳直(当時金沢、現楽天)の前に5打数ノーヒット。「こういう投手を打てなければ、高卒でプロなんて無理だ」と大きな挫折感を味わった。そして、吉田はプロ入りの目標を4年後に変え、東都大学リーグの名門・青山学院大への進学を決めた。
吉田は高校時代から今にかけての精神面の変化について、「高校時代はいい投手と当たると聞くと、“嫌だなあ”という意識だったのですが、今では“いい投手をいかにして打とうか”とワクワクするようになりました」と語る。
そのように意識を変えられたきっかけは、やはり大学日本代表の存在があるようだ。
大学日本代表・善波達也監督は、今年のユニバーシアードに向け、2年前から「3年計画」で金メダルを目指してきた。攻守の要として、守備面では捕手の坂本誠志郎(明治大→阪神2位指名)、そして攻撃面では吉田がその期待を背負い、2年時から3年連続で大学日本代表に選出され続けた。「初めての代表合宿では大瀬良さん(大地/当時九州共立大、現広島)とかすごい投手がたくさんいましたし、中村さん(奨吾/当時早稲田大、現ロッテ)の一つひとつの物事に目的を持って取り組む姿勢には感銘を受けました」
また同期の存在も大きかった。「彼を超えなければプロには行けないという気持ちでした」と話す高山俊(明治大→阪神1位指名)、「自分のためにあれだけの練習をしている奴は観たことがない」と話す畔上翔(法政大)、「ストイックさとしっかりとした理論を持っていました」と話す茂木栄五郎(早稲田大→楽天3位指名)らから、多くのことを学んだ。
またその理論を大学にも持ち帰り、今季は「選手兼任の打撃コーチです」と善波厚司監督が目を細めるように、様々なことをチームに落とし込むなど、最上級生としての自覚が大きく芽生えた
次号「同期たちの無念も背に」
(※本稿は2015年9月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高木遊氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)