全12球団がキャンプを打ち上げ、オープン戦も本格化してきたこの時期。今回はキャンプやオープン戦で不幸にもケガをしてしまった往年の名選手を取り上げ、その“呪い”からの復活について振り返ってみよう。
☆門田博光(アキレス腱断裂)
まずは、あの王貞治(元巨人)と野村克也(元南海ほか)に次ぐ通算567本塁打を放った伝説のホームランアーチスト・門田博光(元南海ほか)。南海時代の1979年、春季キャンプ中にアキレス腱を断裂。ジャンプして着地した際に「ブチッ」という音がして、そのままグラウンドに崩れ落ちたという。全治2カ月、野球ができるまでは最低4カ月という重傷を負い、そのシーズンのほとんどを棒に振ることになった。懸命のリハビリを経て、同年9月に復帰したものの、このケガ以降は脚力が大きく衰えてしまった。
しかし、門田はこのケガを契機に、より打撃を磨いていく決心を固める。走れない、守れない、指名打者専門でプロの世界を生き抜くため、自らの“打撃道”を極める旅に出たのだ。
そして、1981年と1983年には本塁打王を獲得。1987年には2000安打を達成して、名球会入りを果たした。さらに40歳を迎えた1988年には44本塁打、125打点の2冠王でMVPに輝き「不惑の大砲」と呼ばれたことは、あまりにも有名だ。
☆村田兆治(右ヒジ腱断裂)
続いてのレジェンドは「マサカリ投法」でおなじみの村田兆治(元ロッテ)。1982年5月17日、右ヒジに原因不明の痛みを訴えてマウンドを降りた村田。実はその年の春季キャンプから違和感を覚えていたが、我慢強い村田の性格から無理した投球を続けた結果が、不幸な結果を呼んでしまったのだ。
その後は右ヒジ痛の原因を解明するため、全国の病院を巡る。右ヒジの回復を祈り、時には滝に打たれる荒行も敢行した村田。しかし翌1983年になっても、右ヒジは一向に良くならなかった。結局、渡米してスポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の下でトミー・ジョン手術(側副靱帯再建手術/損傷したヒジの靭帯を切除し、正常な腱を移植すること)を受け、以降2年間を地道なリハビリに費やすことになった。
その後の活躍は周知の通り。1984年シーズン終盤に復帰した村田は、翌1985年の開幕から11連勝をマーク。最終的に17勝(5敗)を挙げて見事、カムバック賞を獲得した。中6日のローテーションで、常に日曜日に登板していた村田は「サンデー兆治」と呼ばれた。そして月曜日の朝、サラリーマンたちへ夢と勇気を与えたといわれている。
☆辻発彦(右手人差し指骨折)
続いてはキャンプ中ではなくオープン戦での悲劇から。1987年3月31日、阪神とのオープン戦で打席に入った辻発彦(元西武ほか)。中田良弘(元阪神)のシュートが右手人差し指を直撃し、右手人差し指を開放骨折。飛び出た骨が見えるほどの重傷を負ってしまった。
辻は当時、プロ入り4年目。死球直後は人目をはばからずに号泣した姿が印象深かった。前年に初めてゴールデングラブ賞とベストナインを獲得し、辻自身にとっても楽しみなシーズンを迎える直前だっただけに、その涙の理由は痛さだけではなく、相当な悔しさもあったはずだ。
その後、辻が1軍登録されたのは7月30日。結局、この年の出場は51試合に終わってしまった。
しかし、辻が今後ずっと語り継がれていくだろう驚愕のプレーを残したのが、その年の巨人と戦った日本シリーズだった。
第6戦の8回裏二死から安打で出塁した辻は、続く秋山幸二(元西武ほか)のセンター前ヒットで、捕球したクロマティ(元巨人)の緩慢な守備に乗じて、一気に生還。伝説の走塁を見せてくれたのだった。また辻が日本シリーズ優勝目前の9回表二死の場面でタイムをかけ、泣いていた清原和博(元西武ほか)を慰めたことも記しておきたい。
☆小久保裕紀(右膝前十字靭帯断裂)
最後はオープン戦で壮絶なケガを負った福岡ダイエーホークス時代の小久保裕紀。2003年3月6日、西武とのオープン戦でホームに滑り込んだ際に捕手と交錯。右膝前十字靱帯断裂、外側半月板損傷、内側側副靱帯断裂、脛骨・大腿骨挫傷という重傷を負い、シーズンを棒に振ることになった。実はこの試合、当初は小久保に休養が与えられ、出場する予定がなかったという裏話もある。
失意のまま米国に渡ってリハビリ生活を送った後、その年のオフにまさかの巨人への無償トレードが決定。ファンはもちろん、当時のチームメイトや球界全体に大きなショックを与えた。移籍の理由は定かではないが、米国での治療費や渡航費が球団から支払われなかったという噂もあり、それが原因で小久保とダイエー球団側との確執を生んだともいわれている。
巨人で迎えた2004年の復帰シーズンは、自己最高の打率.314をマーク。41本塁打、96打点を記録するなど好成績を収めた。巨人は3年間の在籍だったが、その間に生え抜き選手以外で初の主将に任命された。
その後、2007年にソフトバンクに返り咲き、最年長の日本シリーズMVPに、2000安打、そして引退試合でノーヒットノーランを浴びるなど、波乱のプロ野球生活を送った小久保。