もともとはアンダースローの投手だった工藤氏。だが、プロ入り後の1981年、サイドスローに転向したことが大きな転機となった。この年、イースタン・リーグで13勝4敗1セーブという好成績を残し(※ファーム最多勝)、シーズン途中から1軍に昇格。ペナントレースで2勝を挙げた。
同年、日本ハムはパ・リーグを制して日本シリーズに進出。2勝4敗で巨人に敗れてしまうが、その2勝はいずれも救援した工藤氏についたもの。翌シーズンにブレイクする予兆ともいえた。
むかえた1982年、工藤氏は開幕から絶好調。前期10勝3敗、後期10勝1敗で20勝を達成した。しかも、9月8日に右手小指を骨折して離脱したため、シーズン半ばでの20勝という、価値あるものだった。
ところが、骨折から1カ月後の10月9日、西武とのプレーオフ第1戦で、工藤氏がまさかの先発登板。もちろん、ケガはまだ治っていなかった。
なぜ、そんな無理をさせたのか。それは、当時の日本ハム・大沢啓二監督の「骨折の工藤は投げるはずがない」という相手予想を踏まえた上での奇襲作戦だった。
結果的に、プレーオフ第1戦は黒星で奇襲失敗。工藤氏は期待に応えて6回終了まで無失点の好投を見せたが、後続ピッチャーが打たれてしまったのだ。
もっとも、奇襲はこれで終わらなかった。“大沢親分”はプレーオフ第3戦でも工藤氏を先発起用し、今度は完投で見事に勝利投手となったのだ。だが、日本ハムは他の試合に勝つことができず、1勝3敗で日本シリーズ進出は叶わなかった。
大沢監督の奇襲作戦は、「プレーオフ敗退」という形で失敗。それだけでなく、工藤氏のその後の野球人生をも狂わせてしまう。骨折が治り切らないうちに投げたことで骨が変形。その結果、投球フォームのバランスを崩し、右肩を故障するという悪循環を招いてしまったのだ。
1983年は8勝したものの、それ以降は右肩の故障が響き、投手の道を断念。野手転向を目指したが、1軍出場は叶わず、1988年限りで現役を引退。地元に戻ってスポーツ用品店を経営する傍ら、社会人野球チーム「由利本荘ベースボールクラブ(BC)」の指導にあたっていた。そして、今回の訃報となってしまったわけだ。
さて、話を1982年に戻そう。実はこの年、もうひとりの秋田県出身者が球界で大記録を達成している。その人物こそ、三冠王を達成した落合博満(当時ロッテ)だ。そのため、同じ秋田出身者としても落合の方が目立つ形となり、結果的に工藤氏の20勝がいまひとつ目立たないものとなってしまった。
ちなみに、1982年の工藤氏以降、日本ハムでは20勝投手は現れていない。つまり、次に日本ハムで20勝投手が生まれれば、必然的に工藤氏の名前にスポットライトが当たることを意味している。
その20勝投手の誕生がいつなのか、大谷翔平なのか有原航平なのか、それとも違う投手なのかはわからない。だが、ぜひとも、工藤氏の名前と偉業が今一度掘り起こされる日が来ることを期待したい。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)