情報がほとんど手に入らない時代、高校野球はファンタジーだった。
夏の甲子園をかけた地方大会。私が少年時代を過ごした1980年代は、新聞でその試合結果を知るしか術はなかった。
梅雨が明けるかどうか。そんな時期に、沖縄と北海道の結果がスポーツ面の片隅に載る。やがてそのスペースは夏の足音に歩調をあわせて陣を広げ、7月後半には1ページでは収まらなくなる。準決勝からはイニングスコアも載り、モノクロ写真とともに「悲願の初優勝!」、「昨夏の覇者散る!」といった、大中小の見出しが踊りだす。地方大会のページは、私にとって初夏の風物詩だった。
不思議なもので数年読み続けるうちに、何の縁もない地方のある高校―――だいたい名前がかっこいい、とか、また準決勝で負けた、とか、そんなたわいもないことが贔屓ポイントだった――― を応援するようになる。
ユニフォームさえ知らぬがチームを待ちわびた。(あの頃から気にしている、神奈川の武相高校。まだ甲子園で出会えていない……)。インターネットがない時代の少年たちにとって、高校野球は空想の物語でもあったのだ。
幸いなことに、本ならばできるだけ買ってくれた家庭で育った私は、高校野球の本を読みふけることができた。
「戦前の大投手、海草中の嶋清一」、「真剣の上を歩いて精神統一をする広島商業」、「骨が折れても投げた滝川中の別所昭」、「動物園から象を連れてきた鳴尾高校応援団」、「雨に泣いた孤独な怪物・江川卓」……。そこには名選手、名監督、名勝負にまつわるどえらい話が載っていた。甲子園はファンタジックの度合いを深めていった。時空を超えて。
このようにしてできあがっていく“私の甲子園”に、(活字の)「さわやかイレブン・池田高校」も入場してきた。1974年、部員11人でセンバツ準優勝。徳島県の山あいにある小さな町からやってきたらしい。牧歌的な風景が思い浮かべた。何となく、痛みのない『二十四の瞳』みたいな……。
しかし。目の当たりにした池田は、蔦文也監督は、まったく想像と違っていた。1979年夏に準決勝で牛島・香川バッテリーの浪商を破り、決勝で箕島に惜敗。私の頭のなかで「ん?」という言葉が出た。思っていたよりごつかった。
私が小学校3年の頃のこと。そして、1982年夏にパワフルな攻撃力で大爆発する姿は怪物じみていた。荒木大輔の早稲田実業を14対2、小学生にもわかる緻密な広島商を12対2で粉砕しての優勝は、小さな田舎町の公立校、という判官贔屓すらよせつけない強の者の圧勝劇だった。
蔦監督のプロフィールに少し触れてみる。1923年生まれ。徳島商の投手として甲子園に出場。大学野球に進むも太平洋戦争に学徒出陣、特攻隊に編入させられる。命の瀬戸際で終戦を迎え、東映フライヤーズに入団したものの肩を壊して失意の帰郷。教壇に立ち、池田野球部をいちから作りあげた。
酒豪。豪快。勝ち気。そんなイメージから「攻めダルマ」と恐れられた。だが、気の弱さも隠せない人だった。「もしかしたら、自分は戦争で死んでいた。だから気が小さくなってしまう……」。恐怖を紛らわせるためにお酒を飲んでいたといわれている。また、ここ一番で弱気の采配が顔を出した、ともいう。
蔦監督率いる池田が全国の強豪校を打ち破っていく姿は、高校野球ファンの胸を熱くした。でも、勝ちきれない……。
天は蔦監督を見捨てなかった。勝負の神は金属バットを与えたもうたのだ。蔦監督は1980年頃から手探りで筋力トレーニングを導入。金属バットの飛距離を生かした「打って、打って、打ちまくる」スタイルで、ついに甲子園制覇。それは革命的だった。蔦監督は宿願を果たしたのだ。
人間くさい蔦監督は高校野球監督の象徴となった。これまでに「蔦本」と呼ばれる蔦監督に関わる本がたくさん出版されている。世間の多くが高校野球監督という異形の存在に“生き様指南”を見いだし、目を向け始めたのは蔦監督からだといってもいい。
ただ、私にとっての蔦監督は文部省好みの品行方正な教育者ではなかった。“汗と涙と友情”的な球児の同伴者にもみえなかった。
苦渋をシワに刻んだ蔦監督からは、やるせなさを酒で流し込み、弱気な自分を「戦え!」と鼓舞する男の人生がみえた。(酒飲みになった今、わかる。場末の酒場で出番を待つ男たちのブルースが鳴っていた)。後悔、失敗、悔恨を繰り返す日々。それを年輪として巻き上げた大人が醸す香気があった。世間からあぶれた大人の色気を教えてくれた人だった。
蔦監督が己の人生に決着をつけた1982年はバブル前夜。ライトでネアカな時代が始まろうとしていた。上手いことやればいいじゃない。そんな喧噪が目の前にあった。ならば、蔦監督は過ぎさろうとする時代(世界)からやってきた老兵だったのでは? そう思うことがある。
映画を見れば似たシチュエーションがある。ハリウッドの反骨男、サム・ペキンパー監督の『ワイルド・バンチ』(1969年)だ。舞台は西部開拓時代の終わり。主人公とその仲間たちはかつて勇名を轟かせたアウトロー。しかし今や皆、時代に取り残されようとしている老兵、といった具合である。彼らは、平凡な老後(引退)をささやかに夢見ている。同時に業の深さから、それが叶わぬ夢であることも知っていた。普通には死ねない。
だが、悔恨にくじけそうな老兵たちは奮い立つ。終わろうとしている価値観に憧れ、自分たちの世界に迷い込んだ若者を救い、新しい時代に巣立たせるために。そして、命をかけて最後の闘いに挑むのだ。
古い男の心意気は、アウトローの愛惜は、種となり若者のなかで芽吹く。新しい時代で小さな花となる。あとはよろしく。そんな魂の輪廻は、日本映画だと黒澤明の『七人の侍』(1954年)でも描かれている。
死にゆく老兵。去りゆく老兵。いずれにせよ先述したスクリーンのなかの老兵は皆、脇役として身を引き、次世代に宿願を託す人生を全うする。
しかし蔦監督。この男は違った。オールドスクールな風情が終わろうとするなか、主人公は蔦監督その人だった。蔦監督は人生の最終出口に金属バットで乗り込み、弱気の虫を打って、打って、打ちのめして大逆転を果たしたのだ。
人の世のモラルが変わったバブル前夜に、蔦監督は“不器用な生き様”で革命を起こした。老兵は勝利したのだ。以降、高校野球は継投策が当たり前になるなど合理的でスマートになっていくわけだが、蔦監督は、ままならぬ人生への落としのつけ方前を、少年の私に教えてくれた。
池田の優勝劇はファンタジーだった。人生には奇跡は起こる、はずなのだ。晩年の蔦監督は大好きなお酒をとめられ、野球もできず悲嘆していたという。それもまた人生、か……。私が老兵になる頃、蔦監督は何を語りかけてくれるだろう。攻めダルマ、バンザイ。
文=山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。
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