今でも「もし日本代表に入っていたら…」と惜しまれるのは巨人、ヤンキースと日米の常勝球団で活躍した「ゴジラ」こと松井秀喜だ。
特にその動向が注目されたのが2006年の第1回WBC。大会前、多くの野球ファンは「1番・イチロー、4番・松井」という夢の顔合わせを思い描いた。実際、イチローと松井は試合で顔を合わせた際には、WBCの出場について意見を交わしている。
イチローが早々に大会出場に意欲を表明するなか、松井は悩んでいた。当時の所属チーム・ヤンキースはWBCに選手を出場させない方針を打ち出しており、松井は2005年オフにヤンキースと再契約したばかりだった……。
日本代表を指揮する王貞治監督(当時)は、帰国した松井に直接会って代表入りを説得。メンバー発表では最後の1枠を松井のために空け、松井の回答を待った。しかし、松井は代表入り辞退を表明。王監督には手紙で苦渋の思いを綴った。
第1回WBCではイチローがリーダーシップを取り世界一に。日本代表に入ったイチローと、辞退した松井の明暗がくっきりと分かれた。
WBCを辞退してまでも、万全を期してシーズンに臨んだ松井だったが、守備の際に左手首を骨折するアクシデントもあり、わずか8本塁打に終わる不本意な年となった。
2009年の第2回WBCでも候補選手として名前が挙がったが、前年に手術した左ヒザの影響もあって辞退。第3回WBCは年齢的にも代表に入る最後のチャンスと目されたが、その前年オフに現役引退を表明。JAPANのユニフォームを着た松井の姿は幻に終わった。
通算79勝23敗で勝率.775。2000年代にダイエー、ソフトバンクのエースとして君臨していたのが斉藤和巳だ。その斉藤も日本代表とは縁がなかった。
2003年には20勝を挙げダイエーの日本一に大きく貢献するも、そのオフに行われたアテネ五輪アジア予選、翌年のアテネ五輪で代表入りすることはなかった。2005年は持病の右肩痛もあって開幕から出遅れるが、15連勝を含む16勝1敗と存在感を見せる。しかし、2006年の第1回WBCでは代表メンバーから漏れてしまう。
この年、斉藤は18勝5敗、防御率1.75、205奪三振と投手主要タイトルを独占。プレーオフでは日本ハムにサヨナラ負けを喫し、マウンドで泣き崩れる姿が多くのソフトバンクファンの涙を誘った。以降、右肩の状態に苦しみ続け、リハビリ担当コーチを経て、2012年に引退した。
現役選手に目を向ければ、通算6度の本塁打王に輝く中村剛也(西武)が代表入りしたのは2015年のプレミア12のみ。その華々しいキャリアと比べると、代表にはあまり縁がない。
2008年に46本塁打で初の本塁打王を獲得し、チームは日本一となる。しかし、2009年の第2回WBCには同僚の片岡易之(現在の登録名は片岡治大)、中島裕之(現在の登録名は中島宏之)が選ばれたが、中村の代表入りは叶わなかった。
中村はその後2009年、2011年、2012年、2014年、2015年と本塁打王を獲得。日本を代表する長距離打者としての地位を確立したが、第3回WBCは前年オフに左ヒザを手術したため代表入りはならず。今回のWBCは昨季の不調や、筒香嘉智、中田翔、山田哲人といった若手の代表チーム定着もあり、中村が呼ばれることはなかった。
文=武山智史(たけやま・さとし)