7月28日、広島の4番・鈴木誠也が、今シーズン20号目の本塁打を放った。大ブレイクした昨シーズンに続き、2年連続の20本塁打到達は立派な成績だ。
じつは広島の日本人選手で、2年連続で20本以上の本塁打を放ったのは2006年から2009年にかけての栗原健太以来、実に7年ぶりの偉業となる。それだけに、23歳の若き4番打者・鈴木への期待は大きい。
暗黒時代、その鈴木以上に大きな期待をかけられ、ファンの夢を託されていたのがほかならぬ栗原だった。低迷するチームを若き4番打者として牽引し、リーグを代表する打者として活躍。栗原の打棒が広島に優勝をもたらしてくれる。ファンはそう信じた。
栗原が不動の4番打者となったのは2008年から。前年まで4番を張っていた新井貴浩がFA移籍でチームを去ったことによる抜擢だった。同年には、エース・黒田博樹もメジャーへ移籍。エースと4番をいっぺんに失う緊急事態に、ファンの多くは最下位すら覚悟した。
その窮地にあって、栗原は孤軍奮闘。4番打者として全試合に出場し、キャリアハイの打率.332、102打点をマーク。この栗原の活躍や、若手の台頭もあり、最下位も危ぶまれたチームは、最後の最後までクライマックスシリーズ進出を争う熱戦を繰り広げ、広島市民球場のラストイヤーを大いに盛り上げた。
結果は4位。CS出場は逃したが、広島市民球場最後のホームランを放った栗原の姿に、翌年から始まる「新生広島東洋カープの未来」を見たファンは数知れないだろう。
悲しみと怒りの淵に沈んでいたファンを救ったのは、紛れもなく生え抜きの若き4番打者・栗原のバットだった。そんな因縁もあり、栗原に対するファンの思い入れは一際強いのだ。
しかし、この年を境に栗原の成績は下降の一途を辿る。低迷するチームのために身を粉にして出場し続けたツケが回ったのか、もともとケガの多い体質をより悪化させてしまう……。
2012年からは1軍出場することも少なくなり、2016年には楽天に移籍。長年、支えたチームがつかんだ優勝の輪に加わることなく、ひっそりとユニフォームを脱いだ。
2000年、廣瀬純は広島を逆指名し、ドラフト2位で入団した。この時期は、広島暗黒時代の幕開けの時期。逆指名で“入団してくれた”ルーキーに期待は膨らんだ。
それもそのはず、廣瀬は法政大3年時に東京六大学リーグの三冠王を獲得。プロ・アマ混合のシドニー五輪代表チームにも選出されるなど、輝かしい実績を誇る即戦力選手だった。
当然、ファンはそんなアマチュア球界の大物に夢を託し、未来の広島黄金時代の主力選手になると信じて疑わなかった。
廣瀬は日本屈指の外野守備を武器に躍動した。2010年にはゴールデン・グラブ賞を受賞。打撃でも打率.309、12本塁打、57打点の好成績を残した。2013年には日本記録となる15打席連続出塁を達成するなど、期待にそぐわぬ活躍を見せた。
しかし、全盛期は長くは続かない。実力は誰もが認めるものの、キャリアのほとんどでケガに泣かされ続けた。チームが暗黒時代を脱した2013年以降はケガの影響で出番を失い、優勝した2016年にユニフォームを脱いだのだった。
2016年には1軍復帰の話もあったが、直前でまたもやケガをして、チャンスを不意にしてしまった……。
廣瀬のトレードマークは長いモミアゲ。広島弁でモミアゲを意味する「チャリ」からもじって「チャーリー」のニックネームで親しまれた。ファンサービスにも気さくに応じる優しい人柄が愛される人気選手だった。
優勝の場面に廣瀬がいなかったことに寂しさを覚えたファンも多かったことだろう。
ここで挙げた2人以外にも暗黒時代にチームを支え、去っていった選手は数多く存在する。
あの頃、いつかはくると信じていた黄金時代が今、目の前にある。だからそ、低迷していたチームで奮闘してくれた選手たちに敬意を評したい。
弱くても愛おしく思えたのは、彼らのがんばりがあったからこそ。これから始まるであろう黄金時代に、彼らが指導者として戻ってきてくれたなら、ファンはこの上ない喜びを感じることだろう。
文=井上智博(いのうえ・ともひろ)