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第2回:長嶋茂雄と天覧試合

国民栄誉賞受賞が発表された「長嶋茂雄」とは一体何者なのか? を改めて振り返っていく『みんなの長嶋茂雄ラボ』。今回のテーマは、長嶋茂雄だけでなく、日本プロ野球史を語る上でも欠かせない「天覧試合」について。入団2年目の長嶋茂雄が「巨人軍のスター」から、「球界のスーパースター」へと変貌を遂げるキッカケとなったこの試合の意義とともに、あの日一体何が起きたのかを改めて掘り下げてみたい。

「ON伝説」の幕開け

昭和34年(1959年)6月25日の巨人vs阪神戦。午後6時58分に天皇・皇后両陛下が後楽園球場のロイヤルボックスに着席。ここに、日本プロ野球史上初(そして公式戦では唯一の)天覧試合がプレーボールとなった。
この試合、先発が巨人・藤田元司、阪神・小山正明の両エース。阪神が1点先制した後の5回裏、巨人の4番・長嶋が同点ホームランを放つ。続く5番・坂崎一彦のソロで巨人が勝ち越すものの、6回に阪神がすぐさま再逆転に成功。しかし、2-4と巨人2点のビハインドで迎えた7回裏、ある男が同点2ランを放つ。その男こそ、この年の新人・王貞治だ。そしてこれが、王と長嶋による「ONアベックアーチ」第1号となる。二人は以降、長嶋の引退までに計106本のアベックアーチを描いていく。まさにこの瞬間、「ONの時代」が始まった。

好敵手・村山実との邂逅

4-4の同点で迎えた最終回9回裏。先頭打者は長嶋。対する阪神のマウンド上にはルーキーの村山実。2ストライク2ボールからの5球目、インコース高めの直球を長嶋は振り抜き、打球はレフトスタンド上段へと消えていった。長嶋にとって「プロ入り初のサヨナラ本塁打」であった。
後に村山が「あれは絶対にファウルだった」と語ったことも有名なエピソードだが、この敗戦を奮起にその後大活躍を見せ、この年の沢村賞を獲得。阪神のエースピッチャーへと変貌を遂げ、やがて「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになる。
つまりこの対戦が「ミスター・ジャイアンツ」と「ミスター・タイガース」、球界を彩る宿命のライバル関係を生み出したのだ。

記憶にも、記録にも残る男・長嶋茂雄

この試合に代表されるように、長嶋茂雄という打者は「スペシャルイベント」になるととにかく打ちまくった。開幕戦での本塁打・通算10本はプロ野球記録。日本シリーズの通算打率.343は160打数以上では歴代1位。シリーズMVP4回受賞も歴代1位だ。オールスターゲームの通算打率.313も130打数以上では歴代1位。とにかく、日本中が注目する試合では必ずといっていいほど活躍する長嶋の姿があった。
さらにすごいのが、この天覧試合に代表される「皇室観覧試合」。全10試合35打席で18安打。通算打率がなんと.514。通算7本塁打とともに、もちろん日本記録である。この活躍をもって、「皇室御用達男」なる言葉まで生まれたほどだ。
《王貞治は「記録」に残る選手。長嶋茂雄は「記憶」に残る選手》とは元日本テレビアナウンサー・?光和夫の言葉と言われているが、まさに、衆目の記憶に残りやすい場面、みんなが期待する状況に応えてくれるのが長嶋茂雄という男なのである。


イラスト/ながさわたかひろ


プロ野球が「メジャー」になった日

こうして、スーパースターへの階段をのぼり始めた長嶋だが、この試合の意味はさらに深い部分に存在する。
卑しい職業野球と揶揄されたところから始まった日本のプロ野球。昭和30年代当時、娯楽の中でもまだまだマイナーな部類であったこの競技が、天皇陛下の観戦という一大イベントによって、「国民的娯楽」へと変貌を遂げたのだ。長嶋自身、自伝において次のように語っている。

《自分の野球人生はあそこでマイナーからメジャーに評価されたし、同時に日本の野球界全体もマイナーだったものから一般国民から評価されるようになった》(長嶋茂雄著『野球は人生どのものだ』より)

プロ野球をメジャーな存在に押し上げた男……この功績だけをもってしても、国民栄誉賞に値するのではないだろうか。

<バックナンバー>
第1回:長嶋茂雄とは何だったのか?

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