1971年、栃木・作新学院に入学した江川は1年夏から登板。県大会で完全試合を達成するなど、その大器の片鱗を見せる。
しかし、なかなか甲子園には縁がなく、1年秋の関東大会・前橋工戦では好投を続けるも頭に死球を受け、途中退場しチームも敗退。2年夏はノーヒットノーラン2回、完全試合1回と、圧巻の投球を展開するが、準決勝で延長サヨナラ負けを喫した。
当時はインターネットも存在しない時代。そのうち「栃木に江川というすごいピッチャーがいる」と、その名が全国に轟くようになっていく。そして2年秋、作新学院は県大会を制すと、関東大会でも江川のピッチングは冴え渡り、準決勝の銚子商(千葉)、決勝の横浜高(神奈川)に勝って優勝。翌春のセンバツ出場を決めた。
迎えた1973年センバツ、作新学院は開会式直後の初日・第1試合で優勝候補の一角・北陽高(大阪、現関大北陽)と対戦する。「江川はどんなボールを投げるのか」と甲子園に駆けつけたファンが注目するなか、マウンドに登場した江川。その剛速球を武器に、初回から5者連続三振という前評判通りの力を発揮。4回までに11もの三振を奪った。
なかでも2回、北陽の5番打者・有田二三男がファウルボールで初めてボールに当てた時には、スタンドから歓声が起こるほどだった。結局、この試合の江川は19奪三振で2−0の完封勝利。全国の高校野球ファンに大きな衝撃を与えた。
江川は続く小倉南(福岡)戦で10奪三振。準々決勝の今治西戦では、北陽戦を上回る20奪三振を奪い、作新学院は勝ち上がっていく。
準決勝で対戦したのは、名門・広島商(広島)。広島商は江川から得点を奪うため、用意周到な準備を重ねてきた。それは各バッターが打席では本塁寄りに立ち、外角低めだけを狙う。そしてそのボールをヒットにするのではなく、ファウルを打って球数を増やしフォアボールを誘い出す。出塁したら広島商の伝統である機動力野球でかき回すという作戦だった。
試合は作新学院が5回に先制するがその裏、ランナー二塁の場面で江川はライト前へポテンヒットを打たれ同点に。甲子園で初めて失点を許した。さらに8回裏、2死一、二塁の場面で、広島商はダブルスチールを試みる。捕手の三塁送球が大きく逸れる間に二塁ランナーが生還して広島商が勝ち越し。この1点が決勝点となり作新学院は1−2で敗れた。
江川はこの試合、11奪三振、被安打2と悪くない投球内容だったが、少ないチャンスを広島商がしっかりとモノにした。この年のセンバツで4試合を投げた江川の奪三振数は60。もちろん、現在も破られていない大会記録だ。
高校最後となる3年夏、江川は県大会の3試合でノーヒットノーランを達成するなど、作新学院を春夏連続の甲子園出場へと導く。初戦の柳川商(大分)戦は延長15回までもつれ、2−1で作新学院がサヨナラ勝ち。江川はこの試合、23奪三振をマークしている。
続く銚子商戦は雨の中の試合となり、0−0のまま延長戦へ突入。延長12回に一死満塁のピンチを迎えると、江川は痛恨の押し出し四球を与え、サヨナラ負けを喫した。
後に江川は法政大で東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。巨人入団後もエースとして活躍するが「一番ボールが速かったのは高校時代」という声は多い。
文=武山智史(たけやま・さとし)