書籍『野球部あるある』(白夜書房)で「野球部本」の地平を切り拓いた菊地選手とクロマツテツロウが、「ありえない野球部」について迫る「野球部ないない」。
最初に取り上げるのは「東の横綱」と称される帝京高校野球部。普通の野球部では「ないない」と言われるであろう「帝京野球部あるある」を描き出すため、帝京野球部OBで現在は芸人として活躍する杉浦双亮さん(360°モンキーズ)に会いに行ってきた。最終回は「今にして残る帝京魂」について。
TVデビューで披露した意外なモノマネ
「今にして思えば、当時はきつすぎました。普通、そんな経験できませんからね。だから引退した頃には、すっかり野球を嫌いになっていましたね」
杉浦さんは2年秋から1年間、前田三夫監督に干されたまま、帝京高校での野球部生活を終えた。
大学に進学すると、野球部時代からの反動で、3年間は遊び続けたという。
大学2年の夏、帝京は甲子園に出場し、そこでも勝ち上がり全国制覇を成し遂げる。
しかし、後輩の快挙にも杉浦さんの中に嬉しさは込み上げてこなかった。当然、応援にも行かなかった。
大学3年時、杉浦さんは帝京サッカー部に所属していた同期・山内崇さんと「あの頃はよかったなぁ」と語り合った。「あの頃」とは、帝京在学時代の文化祭。二人はモノマネを披露して、喝采を浴びていた。その当時を思い出し、お笑いイベントに出演するようになったことが、お笑いコンビ「360°モンキーズ」誕生のきっかけだった。杉浦さん本人は口にはしなかったが、高校野球では不完全燃焼に終わった火種がくすぶり続けていたこともあったのだろう。
しばらく芸人としての下積み生活が続き、大きなチャンスが巡ってきたのは2004年。バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系列)の「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」への出演だった。
「とんでもないワンバウンドのボールに手を出してを空振りする元阪神のフィルダー」
「ピチピチのユニフォームを着させられてバッティングも窮屈になってしまったデーゲームの時の元阪急のブーマー」
「一度だけバッターボックスに立った元巨人のサンチェ」
など、まさに「細かすぎて伝わらない」外国人プロ野球選手のモノマネを披露して、この企画の常連出演者となる。しかし、実は一番最初に見せたモノマネは、外国人ネタではなかった。それは意外にも「帝京高校野球部前田監督のノック」だったのだ。このネタセレクトの背景には、番組MCのとんねるず・石橋貴明さんが帝京野球部OBだったことも関係していたのだろう。
前田監督との邂逅
一躍、人気者となった杉浦さんに、予想外の仕事が舞い込んできた。それは「帝京・前田監督への取材」という仕事だった。
時間が過ぎているとはいえ、過去を清算できたわけではない。それより前田監督は自分のことなど覚えていないだろう。またあの恐ろしい表情で無視されたら…と、恐る恐る母校にやってきた杉浦さんを待っていたのは、意外すぎる前田監督の姿だった。
「『おぅおぅおぅ、オマエ見てるよぉ〜!』って、ものすごくフレンドリーで『ちょっと来てくれ、娘がファンなんだ』って言って、その場で娘さんに電話して…。こんな監督、初めて見ましたよ」
前田監督はテレビでの杉浦さんの活躍を知っていた。そして、にこやかに杉浦さんに接してくれた。杉浦さんにしても純粋にうれしかったが、それでも長年に渡って刷り込まれた怖さと、恨めしい思いもまだ残っていた。
前田監督は現役部員を前に、杉浦さんを紹介した。そして、「ネタを披露してくれないか」というリクエストをしてきた。
「これがもう、全然ウケない(笑)。こんなにウケない舞台なんてないですよ! 監督が『オレのノックもやってくれよ』って言うからやるんだけど、現役たちは監督の前だから『笑ったらまずい』って空気なんですよね」
そう言いながらも、杉浦さんは穏やかな表情で笑った。
その後、杉浦さんと前田監督の関係は監督とOBという形で、ごく自然に続いている。
そして2010年、帝京野球部の60周年と、前田監督の60歳を祝うパーティーが催された。OBが200人ほど集まる盛大な会に、杉浦さんも招かれたのだが、残念ながらその日は外せない仕事が入ってしまっていた。そこで事前にビデオレターを送ったのだが、後に関係者から驚くことを聞かされた。
「タカさん(石橋貴明)やひちょり(森本稀哲/現・DeNA)のビデオレターが流れた後、最後に僕の映像が流れたらしいんですよ!」
芸能界の大御所やプロ野球界のスターを差し置いて、“大トリ”として前田監督へのメッセージを伝えた杉浦さん。最後にはもちろん、「前田監督のノック」のモノマネで締めると、会場は大爆笑に包まれたのだという。
杉浦さんにとっては芸人としても帝京野球部OBとしても、これ以上ない感慨があったに違いない。
杉浦さんの中に残る「帝京魂」
「帝京魂」
とんねるずの石橋さんが、よくテレビで使うフレーズとして、聞き覚えがある人も多いことだろう。杉浦さんにとって、「帝京魂」とは、どんなものなのだろうか?
「何度も言いますけど、やっぱり当時はきつすぎましたから。監督も一番きつい時期で、あんな経験をすることはない。でも、『これだけきつい練習していたら大丈夫」という安心感のようなものは常にありましたよね」
それは、毀誉褒貶や移り変わりの激しい、芸の道に身を置いた今でも変わらないのだという。乳首から血を流すほど走った入学直後、弁当の米を農業用水で胃に流し込んだ夏合宿、監督から無視され続けた日々…。あの苦しい時期に比べたら、どんな状況に陥っても「大丈夫」と思える。それが、杉浦さんにとっての「帝京魂」なのだ。
今も、杉浦さんは前田監督への恐怖心が抜けないのだという。
「甲子園なんかテレビで見ていると、昔に比べて丸くなったなぁ…と思うんですけど、ふとしたときに昔の顔に戻る瞬間があるんです。これ帝京のOBはみんな言うんですけど、『あ、キャンツー、ふてってる』って。『ふてってる』って言いません? 怒ってるというか、ふて腐れてるというか、そういう表情なんです」
一般的な「恩師」と「教え子」という関係とはかけ離れた、奇妙な関係かもしれない。師は教え子たちに威圧感ばかりを与え、何か言葉を残しているわけではない。教え子も師をいまだに恐れ、慕っているとはとても言い難い。しかし、教え子はいまだに師を意識しながら、そして恐れ続けている。この関係がいいとか悪いとか、第三者がどうこう言うべきことではないだろう。
それが「帝京野球部」なのだ。
前田監督が笑った
話を聞き終えようかという頃、杉浦さんが思い出したようにポツリと言った。
「3年間で唯一、監督が笑ったことがあったんです」
普通の監督なら、別に何もおかしいことではない。しかし、常に無表情で「人間と思えなかった」と杉浦さんも述懐するような前田監督なのだ。その瞬間とはいったいいつだったのか。
「紅白戦で打席に入ったとき、フィルダーのモノマネをしたんですよ」
即座に頭の中を無数のクエスチョンマークがうごめいた。
えっ、紅白戦でモノマネ?
「えぇ、もうその頃には監督から無視されてましたから。だからいいやと思って。そのときから『ヴェ! ヴェ! ヴェ〜ヴェ〜ヴェ〜!』って音(杉浦さんがモノマネを披露する際に必ず口ずさむバースの応援歌)もつけてね」
頭の中のクエスチョンマークが2倍に増えた。しかし、うれしそうに語る杉浦さんを遮ることははばかられた。
「チームの奴らはみんな笑ってたんですけど、そのとき、監督もバックネット裏でニヤッと笑ったような気がしたんですよ」
人数合わせとはいえ、干された人間が紅白戦の打席でフィルダーのモノマネをし、それをチームメイトも監督も笑う…。弱小野球部の話ではない。ここまで聞いてきた「帝京野球部」の話からは、想像もできなかった。
しかし、杉浦さんの口調からは、それが特別なことという雰囲気は感じ取れなかった。今まで数多くの「常識」をぶち破ってきた帝京野球部にとっては、そこまでありえない光景ではないのだろうか。
それにしても何よりの驚きだったのは、杉浦さんの芸が帝京野球部時代にはすでに完成されていたということだ。
このときの「あの監督を笑わせた」という経験は、杉浦さんにとって無意識のうちに自信を植えつけていたのではないだろうか。鬼の前田三夫をも笑わせたネタなら、笑わない奴などいない。そんな思いを抱きながら、杉浦さんはテレビカメラの前でモノマネを演じていたのかもしれない。
そう思うと、芸人・杉浦双亮は、帝京野球部時代から変わらず、存在し続けてきたと言えるのだろう。
一人、頭の中で考えながらうなずいていると、ふと杉浦さんのツルッと光る頭が目に入った。
もしかして、その髪型も帝京時代を忘れないために保っているんですか?
そう問うと、杉浦さんは満面の笑みでこう答えた。
「これはただのハゲですよ!」
杉浦双亮(すぎうら・そうすけ)
1976年2月8日生まれ、東京都八丈島出身。小学5年で埼玉県大宮市(現さいたま市)に転居し、帝京高校では野球部に入部。チームは入学した1年春から4季連続で甲子園に出場するが、自身のベンチ入りはなし。高校時代の同期生・山内崇さんとお笑いコンビ「360°モンキーズ」を結成し、コアな外国人選手のモノマネでブレークした。DVD『マニア向け』が好評発売中。
今回の【帝京野球部あるある】
テレビで甲子園を見ていると、前田監督が昔の顔に戻る瞬間を発見する。