全国各地で熱戦が繰り広げられている高校野球。甲子園出場切符をかけた戦いは、延長戦に突入することも多い。夏の甲子園では、1933年の準決勝で、中京商(現中京大中京高)が延長25回、1−0で明石中(現明石高)にサヨナラ勝ちした試合が有名だ。
この有名な延長戦とは別に、甲子園出場をかけた地方大会で起きた“死闘”をご存じだろうか。延べ3日間、合計40イニングスの恐るべき試合は、1941年の夏に起きた。台湾大会の台北工と嘉義農林の間で行われた試合である。
第27回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)出場をかけて、各地方大会が行われていた1941年の夏。日本の統治下に置かれていた台湾でも大会は実施されていた。当時の台湾野球は、台北一中、嘉義中、そして嘉義農林が強かった。そんな有力校の1つ、台北一中が1回戦で台北工に4−3で敗れる波乱が起きた。今の時代であれば、大々的に取り上げられるだろう番狂わせを演じた台北工。この次の試合となる嘉義農林戦もまた、とてつもない試合となった。
7月26日にプレイボールがかかった台北工対嘉義農林の一戦は、両軍エースが好投し、8回まで0−0のまま試合は進む。ここで球場を大雨が襲い、引き分けとなった。
翌27日の再試合も投手戦となり、無得点は続く。昨日に引き続き、今度は7回に降雨に見舞われ、またもや引き分け。改めて翌日に行われる再々試合で決着をつけることになった。
当時はサスペンデッドゲームなどというルールはなく、1日毎に1回表から試合は再開されていた。
ここまで8回、7回と合計15回を無得点で戦った両軍。しかし、再々試合では、台北工が3回に初めて得点を挙げた。対する嘉義農林も6回に1点を返して、同点に追いつく。その後は、これまでの試合と同じく投手戦となり無得点が続いて、試合は延長戦に突入。そして決着がついたのは、なんと延長25回。嘉義農林の主将・柴田が決勝打を放って、サヨナラ勝ちを収めた。3日間に及ぶ、この熱戦の合計試合時間は5時間45分、イニングは40回に達した。
史上希にみる延長戦を制した嘉義農林は、台湾人・日本人・先住民族で構成されていた。先住民族である高砂族の選手は身体能力が高く、俊足揃い。野球が強かった背景には、彼らの活躍があった、といわれている。
人種の差を乗り越えて甲子園を目指した嘉義農林は、1931年夏の甲子園に初出場し、決勝戦にも進出した。最後は中京商に敗れたが、甲子園でも人気を博したという記録が残っている。