「大学で野球ですか。考えませんでしたね。野球はあくまで職業であって、趣味でやるっていうものではありませんから。好きっていうわけでもなかったんですよ。もちろん嫌いじゃなかったですけど」
都内有数の桜の名所である土手。江戸城の外堀を埋めて造ったという大学の野球場を眺めながらその若者は語った。この春、彼は新卒の社会人として外資系企業に入社するのだが、25歳という年齢は、彼が少々寄り道をしたことを示していた。
海の向こうでは、彼と同い年の投手が野球の頂点、メジャーリーグに挑戦しようとしている。連日マスコミをにぎわせている、その日本球界最高の投手の仕上がり具合にも、彼は無関心を装った。しかし、関心がないはずはない。なぜなら彼、鷲谷修也は高校時代、日本球界の至宝・田中将大とともに甲子園の土を踏んでいたのだ。
取材に当たって「田中のことは勘弁してください」という条件を彼はつけた。
「あまり他人のことを言うのは好きでないんで」。そこから切り出した彼は、自らの経験を語ってくれた。実は、鷲谷は田中より早くメジャーに挑戦している。
2008年オフ、鷲谷は少々世間を賑わせた。「あのマー君の同級生がメジャーからドラフト指名」。甲子園で「ハンカチ王子」擁する早稲田実業と高校球史に残る名勝負を演じた駒大苫小牧のメンバーというストーリー性もあって、マスコミは飛びついた。
「いや、そんなたいそうな選手ではなかったですよ」と鷲谷は笑う。実際、彼のMLBドラフト指名はある意味、偶然の産物だった。
あの夏の後、日本で大学受験に失敗した彼は、野球に没頭していた高校時代を冷静に分析し、アメリカの短大への進学という選択肢をとった。
「全然勉強なんかしてませんでしたから。浪人しようとも思いましたが、それでも与えられた時間は1年じゃないですか。でもアメリカだと、とりあえず入りやすい短大に入ってそれから大学に編入っていうことができますから。その方が挽回のチャンスも多いって考えたんです。それに9月入学なんで、それまでも勉強の時間がありますし」
だから、野球はあくまで、彼にとって人生を切りひらくツールでしかなかった。
「3年になる頃には、もうプロは頭になくなってました。甲子園って言っても、高校野球ではチームの強さと、個々の選手の力量は別ものですから。まあ、田中はもうプロへ行くもんだと思ってましたけど、だからって自分も、とは思いませんでした。投手と野手は別ですし。自分よりうまい先輩が大学や社会人で通用しなかったのをみて、自分がプロっていうレベルでないのはわかってましたから、志望届も出しませんでした」
とは言うものの、彼はアメリカでも野球自体はプレーした。しかし、それはキャンパスライフを楽しむためでも、メジャーを目指すためでもなかった。
「学業だけじゃ、奨学金もらうにしても、編入するにしても苦しいですから。なにかしらアピールポイントがいるかなって。入学の時、短大にビデオ送ったんです。それで野球部に入ったんですが、グラウンド整備のバイトなんかもできたんで助かりました」
大学生にしてはしたたかすぎるように思えるのだが、今どきの若者はこうなのかもしれない。だが、そういう計算が思うようにいかないのもまた人生である。アメリカでキャンパスライフを送るために再びプレーした野球が、鷲谷の人生をこの後、大きく変えることになる。
アメリカの大学では「文武両道」を日本以上に求められる。鷲谷によると、学業のレベル、スポーツのレベルが上がれば上がるほどその傾向は強いという。逆に言えば、名門大学だけに好選手が集まっているわけでもなく、短大にも「学業はできないが、野球はすごい」という原石がゴロゴロしている。
「ウチもそうでしたね。エースピッチャーが単位落としてベンチ入りできないとか。でも、そういう選手がいるからメジャーのスカウトも来るんですよ」
そういうスカウトの目が鷲谷に注がれた。1年を終える頃には契約のオファーが舞い込んだが、鷲谷はこれを断わった。
「ネットで調べたんですよ。そしたら、1500人くらい指名されるって。調査書は9球団くらいからもらったんです。それでナショナルズから42巡目で指名されたんですけど、全体では1261番目。結局、その年はお断りしました」
しかし、このことで、いったんは消えていたプロへの道程が再び視界に入ってきた。翌年、再びナショナルズが14巡目で指名すると、今度は迷わずプロの世界へ飛び込んだ。
「その時はもう半年前くらいからプロでやろうって決めてました。周りにあおられた部分もありましたかね(笑)。やっぱり日本に帰って(指名されたことを)言うでしょ。そしたらみんな、行け行けって。会う人会う人、やってこいよって言うんです。そう言われると、やってやろうって思うじゃないですか。やれるよって言われれば、できんのかなって思っちゃって。親は、勧めもせず、止めもせずって感じでした。やっぱり普通にサラリーマンになって欲しかったんじゃないですかね。でも、基本的には好きなようにって感じでした」
(後編につづく)