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[小さな大投手]と野球殿堂・前編

 新しい年を迎えて間もないこの時期、日本球界では恒例の行事があります。野球殿堂入り記者発表です。

 野球殿堂とは、<日本の野球の発展に大きく貢献した方々の功績を永久に讃え、顕彰する>ため、1959年に創設されました。
 表彰は競技者表彰と特別表彰に分かれ、昨年までに177名が殿堂入りしています。今年、2013年は1月11日に記者発表があり、すでに競技者表彰は候補者が発表されています。

 さて、僕自身、この殿堂入り発表前後にいつも思い出すのが、1999年にインタビューしたときの金田正一さん(元国鉄ほか)の発言です。
 金田さんが現役時代に対戦した大打者たち。阪神の藤村富美男、巨人の川上哲治といった選手たちの印象が語られていくなか、僕に向かってこう言いました。

「昔の選手を取り上げるなら、そういう人たちの素晴らしさを伝えてあげてよ」

 取材者の自分としては、金田さんの400勝という大記録がいかに成し遂げられたのか、その原点についてうかがうつもりでいました。しかし金田さんはこちらの方針を聞いた途端、不機嫌になってしまったのです。


▲「長谷川良平が殿堂入りしていないのは馬鹿げてる」と憤っていた金田正一さん(1999年当時)。

「川上さん、藤村さん、青田昇さんにしろ、昔の古い人というのをないがしろにしすぎる。いま現在、あの長谷川良平が、広島で『小さな大投手』と呼ばれた人が、野球殿堂に入ってない、ちゅうのも馬鹿げてる。彼のように肝心な人を外してきたというのは、罪多きことだな。なんでこんな時代になってしまったのか……」

 恥ずかしながら、当時の僕は川上、藤村、青田のことは知っていても、長谷川良平という投手の実績や球歴を何も知らずにいました。それだけに殿堂入りの経緯も含め、長谷川良平について金田さんにうかがおうとしたところ、話は絶え間なく続いたのです。

「もし、アンタが書きたいのなら、そういう人たちを取り上げて、読んでもらうのがいちばんと思うがね。そういう思い出は、われわれの世代はたくさん持ってるから。ワシのことなど、どうでもいいんだから」

 このあともしばらく、金田さんの機嫌が好転することはなく、苦難のインタビューが続きました。その顛末はともかくとして、金田さん自ら「殿堂入りしていないとは馬鹿げてる」と嘆いた長谷川良平、一体どれだけすごい投手だったのか――。同行した編集者とともに、「いつか必ず会いに行きましょう」という話をしながら帰路についたのでした。

 金田さんの強い思いが球界全体に通じたのか、2001年1月、長谷川良平の野球殿堂入りが発表されました。今にして思えば、そのときに会いに行くべきだったのですが、連載媒体が不定期刊行のためにタイミングが合わず。結局、直接の契機となったのは、オリックスと近鉄の合併に端を発する2004年の球界再編です。

 長谷川良平は1930年、愛知県半田市生まれ。半田商工高(現半田商業)から新田建設、第一繊維などの社会人チームを経て、1950年に広島に入団しています。
 1950年は、それまで1リーグだった日本プロ野球がセントラル、パシフィックの2リーグに分裂してスタートした年。このとき、セ・リーグに加盟した新球団のひとつが広島で、長谷川は第一期生だったのです。

 「新球団」「第一期生」という言葉の響き――。これは2004年の球界再編の途上においても、よく耳に入ってきました。
 最終的には、まさに新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生し、いま現在に至っているわけですが、「寄せ集め」と言われた楽天の戦力は弱小。
 弱小チームだったのは創立当時の広島も同様ということで、僕は、球史がまた繰り返されるような印象を持ちました。
 その広島のなかで、新人右腕の長谷川投手はプロ1年目から56試合に登板して、投球イニング数はなんと348回1/3。2012年のセ・リーグ新人王、同じ広島の野村祐輔投手が172回2/3でしたから、実にその2倍です。もちろん1950年と今とではシステムの違いなどがあって一概に比べられませんが、60年以上前の主力投手はそれだけ投げるのが普通でした。

 さらに同年の長谷川投手は防御率3.87、15勝27敗と大きく負け越しているものの、27完投。大車輪の働きを見せています。
 創立1年目のチームで勝ち頭。いわば「初代エース」としてシーズン2ケタ勝利を続けること8年連続。その間の1953年に初めて20勝を挙げ、30勝を達成した55年からは3年連続20勝以上。

 これほどの力を持つ長谷川投手が、身長167センチと決して恵まれた体格ではなかった、と知ったときには大いに驚いたものです。また、ニックネームの[小さな大投手]は、それ以上なく見合った形容句だと感じましたし、「なぜいまだに殿堂入りしていない」と金田さんが憤るのも当然、と思いました。

 惜しくも、2006年7月に天に召された長谷川さん。広島市にあるご自宅を訪ねたのは、その前の年の1月でした。
 約束の時間ちょうどに到着すると、格子状の門の前に長谷川さんが立っていました。家の外に出て待ってくれていた野球人は初めてでしたから、編集者と僕と二人そろってびっくりしながら恐縮。と同時に意外だったのは、目の前の長谷川さんに[小さな]という印象はなく、むしろ大きく感じられたことです。

▲2005年1月にインタビューしたときの長谷川さん。当時74歳。

 「どうぞ、こちらへ。どうぞ」
 やさしい声で案内されて玄関を上がると、正面の壁に巨大な写真パネルが何枚か掲げられています。よく見るとそれは原爆ドームを内部から撮影したカラーの組写真で、自分が今、広島にいることを再認識させられました。
 写真について尋ねる間もなく、長谷川さんの後を追ってその部屋の扉が開けられた途端、僕はハッとして息を呑みました。八畳ほどの応接間が、まるで博物館のようだったのです。

▲ご自宅の応接間に陳列されたトロフィーや盾。

 サイドボードには野球殿堂入り記念のレリーフをはじめ、数々のトロフィーや盾が陳列され、壁には額入りの写真から表彰状、現役時代の長谷川さんを描いた肖像画まで。作り付けの棚も、さまざまな記念の品々で埋め尽くされていました。

▲野球殿堂入りのレリーフも飾られていた。

(次回につづく)
※次回更新は1月15日(火)になります。


<編集部よりお知らせ>
facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。今年1月29日発売『野球太郎 No.003』では中利夫氏(元中日)のインタビューを掲載する。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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