東大野球部の連敗が止まらない。去る4月20日の東京六大学春季リーグ、慶應義塾大に2-13で敗れ、2010(平成22)年秋以来、2つの引き分けを挟んで70連敗を記録。1987(昭和62)年秋から1990(平成2)年秋にかけて東大自身が記録したリーグ最多連敗記録に並んだ。
そして5月3日と4日に行われた対早稲田大戦にも連敗で、リーグワースト記録を更新。その後、立教大にも敗れ、74連敗となった。かつては幾多の番狂わせを演じてきた東大野球部も、3年半に渡って勝ち星に恵まれていない。今回はその東大野球部の歴史について、クローズアップしてみた。
東大野球部の前身の一部にあたるのが、旧制第一高等学校(旧制一高)だ。1949(昭和24)年に旧制一高・旧制東京高等学校が併合して、学制改革による新制の東京大学が誕生した。しかし東大野球部の歴史は旧制一高の歴史を切り離しており、東大に野球部が創部されたのは、正式には1919(大正8)年ということになっている。
ちなみに旧制一高野球部は、日本野球界の礎(いしずえ)的存在。1871(明治4)年、米国人ホーレス・ウィルソンが日本で初めて野球を教えたといわれているが、その舞台こそ旧制一高(当時は東京開成学校予科)である。
時は流れて1925(大正14)年、早稲田、慶應義塾、明治、法政、立教の5大学に東大が加わり、東京六大学リーグが誕生。実はその年の春、東大はリーグで通用するかどうか確かめる意味合いで、各大学と試合を行ったという。結果、それなりの健闘をみせたので、正式に加盟を認められたのだった。
当時の東大には、大学野球界屈指の名投手・東武雄がいた。この東の活躍で他の5大学と好試合を演じて、リーグに加盟できたといっても良いだろう。
東は東大野球部で唯一、ノーヒットノーランも記録した伝説の投手。1925(大正14)年秋のリーグは、東の快投により法政大に4−1で勝利。東大はなんとリーグ初戦を白星で飾った。ちなみにこの試合で東が放った本塁打は、記念すべき東京六大学リーグ初本塁打でもある。
しかし東が卒業すると、東大は一気に弱体化。1933(昭和8)年から1938(昭和13)年秋まで10季連続で最下位となり、好成績を挙げることなく戦争でリーグは中断。1946(昭和21)年春に再開された戦後初のリーグ戦では、健闘をみせるも、その後は再び暗黒時代を迎えることになる。1950(昭和25)年春から1956(昭和31)年秋にかけて14季連続最下位を記録し、その間に50連敗を記録している。
1960年代、1970年代も東大の苦戦は続き、最下位が定位置となっていた。しかし所々で話題を提供してきたのは、さすが東大といったところか。
1961(昭和36)年から1964(昭和39)年にかけて東大野球部に所属し、その間、東大の全8勝を1人でマークした新治伸治は、東大野球部史上初めてプロ野球入りを果たした。また1963(昭和38)年から1966(昭和41)年の間、東大のエースだった井手峻投手も、中日にドラフト指名されてプロ入りしている。
ほかにも1974(昭和49)年秋には作新学院高から法政大に入学したあの江川卓が神宮デビュー。開幕から3連勝していた江川に対して、初黒星をつけたのが東大野球部だった。
さらに1980年代には「赤門旋風」と呼ばれる快進撃をみせた時代もあった。1981(昭和56)年春には史上初めて、早稲田と慶應義塾の両校から揃って勝ち点をマーク。秋にも早稲田から勝ち点を奪うなど、この頃の東大は2シーズン連続で最下位になったことはなく、最下位になったとしても、そのシーズンでは必ず勝ち星を挙げていたのだった。
しかしこの「赤門旋風」以降、東大野球部に新たな試練が襲いかかる。なかなか勝つことができなくなり、1987(昭和62)年秋の開幕2戦目から、1990(平成2)年秋のシーズン終了まで、なんと70連敗を記録してしまった。
この連敗が始まる前の勝利は、その前に記録していた30連敗をストップする勝利だった東大。つまり1987(昭和62)年開幕戦から1990(平成2)年秋まで、東大は通算1勝100敗という前代未聞の成績を記録したのだった。この成績も、2008(平成20)年秋から2010(平成22)年秋には35連敗、そして1勝を挟んで、現在まで至る72連敗を加えると、107敗と更新してしまった。
東大野球部寮の「一誠寮」には、寮の名前が書かれた看板が掲げられている。しかし、この看板にある「誠」の字のなかの「成」の部分は、最後の一画「ノ」が欠けているという。東大の初代野球部長・長與又郎氏が書き損じたという説があり、この一画は「東大野球部がリーグ優勝したら、書き加えよう」ということになったそうだ。果たしてその日は訪れるのか……。東大野球部の奮闘を祈るしかない。
(2014年5月10日/スポニチアネックス配信)