1995年5月2日、サンフランシスコ・キャンドルスティックパークでのジャイアンツ戦で、ドジャース・野茂英雄がメジャー初登板初先発のマウンドに立った。日本では主に南海、アメリカではジャイアンツで活躍した村上雅則氏以来、約30年ぶりにメジャーリーグの舞台に日本人選手が。MLBで日本人選手が勝負できるのか、独特のトルネード投法が通用するのか……疑いの目はたしかにあった。しかし、それらの疑念だけではなく、前年のストライキで人気に陰りが見えていたMLBのファン離れまでも吹き飛ばし、1つのムーブメントを起こした。
この年、野茂が残した足跡は、その後、アメリカに渡った多くの日本人選手たちのお手本となる。あれからちょうど20年、日米で大きなインパクトを与えた「ヒデオ・ノモ」の1995年をもう一度振り返りたい。
1994年シーズン終了後のオフ、近鉄を退団した野茂は1995年2月にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を交わす。年俸は前年の1億4000万円を大きく下回るわずか980万円だった。
キャンプ、オープン戦でその実力を見せるとメジャー昇格を言い渡され、5月2日の初登板を迎える。その初回、2死から3者連続四球で満塁のピンチを迎えるも、6番のロイス・クレイトンを三振に仕留め、無失点で終える。その後は立ち直り、ジャイアンツ打線を抑えた。勝敗こそ付かなかったものの5回を投げ被安打1、奪三振7、無失点の好投でメジャーデビュー戦のマウンドを降りた。
その後の登板でもなかなか白星に繋がらず、28日のエクスポズ戦では初黒星。しかし、初登板から1カ月が経った6月2日、シェイ・スタジアムのメッツ戦で待望のMLB初勝利を挙げた。
初勝利を挙げてからも、変わらず、いやメジャーの舞台で加速度的に躍動していった。6月14日のパイレーツ戦で16奪三振の活躍を見せると、24日のジャイアンツ戦、29日のロッキーズ戦と2試合連続完封と圧巻の投球。6月だけで6勝、負けなしの結果を残し、月間MVPを獲得した。
さらに、その活躍が認められ、7月11日、ザ・ボールパーク・イン・アーリントンで行われたオールスターゲームにナ・リーグの一員として選出。それだけではなく、先発投手も任されることに。2回を投げ、打たれたヒットはカルロス・バイエガ(インディアンズ)に打たれた1本のみで、三振は3つを奪い、その大役を果たした。
オールスターゲーム後も先発ローテーションを守り抜き、勝利を積み重ねていった。ストレートとフォークボールで相手打者をなぎ倒す姿に、「ノモガナゲレバダイジョウブ」とアメリカのファンは熱狂し「ノモマニア」という言葉が流行したことは印象深い。さらに、日本でもその活躍が逐一伝えられ、一つの現象となっていった。
8月5日のジャイアンツ戦ではわずか1安打に抑える完封勝利。15日のカブス戦でついに10勝を挙げ、2ケタ勝利に到達する。9月には3勝を挙げ、最終的には13勝6敗、防御率はリーグ2位の2.54。236奪三振はリーグ最多でタイトルを獲得。野茂の活躍もあり、ドジャースは7年ぶりに地区優勝を果たした。
シンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発するが、敗戦投手に。チームも0勝3敗で敗退した。そして、シーズン終了後の11月9日には、ナ・リーグ新人王を受賞。ドジャースからはエリック・キャロス、マイク・ピアザ、ラウル・モンデシーに続く4年連続の新人王となった。
野茂はその後、2008年まで現役を続け、過去に5投手しかいない両リーグでのノーヒッターや日本人メジャーリーガー初本塁打などを成し遂げ、また、タイトルでいうと最多奪三振を2度獲得した。
野茂以前はMLBが日本プロ野球よりも優れていると考えられていたが、日本プロ野球にはMLBにも劣らない実力があることを、野茂が身をもって教えてくれた。野茂の活躍以降、多くの日本人選手がMLBのチームに移籍したのはご存知の通りだ。20年前、日本球界への退路を断ち、右腕一本で海を渡った野茂英雄というパイオニアに、あらためて最大限の敬意を示したい。