大谷の「1番・投手」が驚きだったのは、高校野球でも最近では珍しいから、という理由もあるだろう。ところが、過去には「両チームとも1番・投手」というとんでもない試合があった。1975年京都大会1回戦、園部と北嵯峨の試合だ。
「打撃センスがいいので先取点を狙ってトップを打たせた」というのが両チームの監督のコメント。実際、園部の新投手は二塁打2本で2打点。一方、北嵯峨の中村投手も負けじと2安打を記録した。
ただ、試合は17対1で園部のコールド勝ち。さすがに両1番打者からホームランは出なかったという。
もしマンガでこのエピソードを描いたら、「作者、手ぇ抜き過ぎ!」と怒られそうな珍事が起きたのが1998年の岩手大会。この年、遠野にはやたらと菊池姓の選手が多かった。
その結果、1回戦のスタメンには5番打者と9番打者以外、7人の「菊池」選手が名を連ねたのだ。
岩手・花巻東出身の菊池雄星(西武)に代表されるように、もともと岩手県では多いとされる菊池姓。だからといってこんな珍事はそうそう起きるはずもない。あるスポーツ新聞は「菊池7人夏物語」といううまい見出しでこの珍事を伝えた。
ちなみにこの試合、菊池選手の活躍で遠野がコールド勝ち。それにしても、球場アナウンスはさぞかし大変なことだったろう。
遠野の珍事以外にも、1998年の高校野球はとにかくマンガ的な出来事が多かった。横浜・松坂大輔(現・ソフトバンク)の250球完投や決勝ノーヒットノーランでの春夏連覇がその代表例だ。
だが、衝撃度ではもっとスゴイ事件があった。青森大会2回戦、東奥義塾と深浦の試合で生まれた「122対0」のスコアだ。1回表に39点を取った東奥義塾は7回までに86本のヒットと78個の盗塁を決め、122点を挙げてコールドゲームを記録した。
この試合以前、コールドゲームの規定は都道府県ごとにバラバラ。青森では7回が終わるまでコールドゲームは成立しなかった。ところがこの試合後、「5回で10点、7回で7点差がつけばコールドゲームとする」と全国的に統一。マンガのようなとんでもない試合は、ルールまで変えてしまったわけだ。
現役プロ野球選手も関わった珍事を紹介しよう。2007年神奈川大会準決勝、東海大相模と横浜の一戦での出来事。
東海大相模は4回、2死ながら一、三塁のチャンスで打席に菅野智之(現・巨人)を迎えた。結果は、期待むなしく空振り三振。ところが、この球がワンバウンド。本来、捕手は菅野にタッチするか一塁に送球しなければならないが、横浜ナインは全員が「チェンジ」と勘違いし、ベンチへ戻ってしまう。
一方、東海大相模はベンチから「走れ!」の指示。二人の走者はもちろん、打者走者の菅野もダイヤモンドを一周し、「振り逃げ3ラン」が成立したのだ。1971年の西奥羽秋田大会で「振り逃げ2ラン」はあったが、それを上回る珍事となった。
横浜は当然、猛抗議をしたが受け入れられず、この3点が決め手となって6対4で東海大相模が勝利した。
今年5月、アメリカからとんでもないニュースが流れてきた。オハイオ州クリーブランドの高校生投手が、対戦したすべての打者から三振を奪って完全試合を達成した、というニュースだ。5回コールド勝ちのため対戦打者は15人だが、それでももちろんスゴイ記録だ。
日本の高校野球で「全員三振」の記録はまだないが、これにもっとも近づいたのが1971年の東京大会、日大一の保坂英二(元日本ハム)だ。
この試合、6回コールドのため対戦したのは18人。うち、17人から三振を奪ったのだ。残りのひとりも遊ゴロ。参考記録ながら完全試合のオマケつきだった。
その他、1試合での三振数では1983年の福島大会で日大東北の斉藤勝己が25奪三振を記録。1934年の京都大会では京都商の沢村栄治(元巨人)が23奪三振を記録。また、連続三振としては、1976年の長崎大会3回戦で、酒井圭一(元ヤクルト)が試合開始から6回一死まで「16連続三振」という記録をつくっている。
2012年の夏の甲子園で、桐光学園の松井裕樹(現・楽天)が「1試合22奪三振」の甲子園記録を樹立したのが記憶に新しいが、地方大会ではもっとすごい記録があったわけだ。
ちなみに、野球マンガの巨匠・水島新司先生は代表作『球道くん』で、練習試合ではあるが打者27人全員三振の完全試合を描いている。マンガ超えは、なかなかに難しい。
文=オグマナオト