1975年5月22日、南海対日本ハムの5回表、南海の4番にしてプレーイングマネージャー・野村克也がレフトスタンド上段に3ランホームランを放った。シーズン9本目のホームランは、自身通算600号のメモリアルアーチだった。
600号はNPB史上、王貞治に次ぐ2人目。だが、当時は人気のなかったパ・リーグ。何もしなければ、いくら大偉業であってもメディアでの扱いは小さいはず。そう予想した野村が考えに考え抜いて用意したのがこの名言だった。
野村はまず、「自分がこれまでやってこれたのは長嶋や王がいたからだ」と話はじめ、記者の興味をひいた。食いつけば、あとは野村節を決め込むのみだ。
「彼らはいつも人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目にふれないところで寂しく野球をやってきた。花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草だってある。王や長嶋はヒマワリ。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ。自己満足かもしれないが、そういう花もあっていいと思ってきた」
詩的な表現の中にONとの対比を入れた、実に野村らしいフレーズだ。
でも、実はこれには元ネタがある。太宰治『富嶽百景』の一節「富士には月見草がよく似合う」からヒントを得たものだった。日頃から教え子に「本を読め。プロなら言葉を磨け」と教えている野村らしい、実に教養豊かな名言だったことがわかる。
では、なぜ月見草を選んだのか? この花は、野村の故郷・京都の田舎町によく咲いていた花だったという。
少年時代の野村は、畑仕事やアルバイトの帰り道、夕方になるとたくさん咲く黄色く小さな月見草を見ては「きれいだけど、地味。夜に咲いても誰も見ていないのに……」と思っていた。そんな故郷に思いを馳せた、自分の原点を詠んだものでもあったわけだ。
また、元ネタには「富士」とあることからも、実は自分こそが一番なのだ、という自負もうかがえる。
ちなみに、月見草と対になるものとして「ヒマワリ」を選んだのは、沙知代夫人だという。「月見草が陰だとしたら、光り輝く花は何だ?」と尋ねたところ、「ヒマワリ」と即答したことから生まれた、夫婦共作の言葉なのだ。
野村は、常に言葉を大事にしてきた。言葉の重さ、影響力の強さをよく知っていたからだ。だからこそ、野村は「月見草」の名言についても、発表する1カ月も前から周到に準備をしていた。
野村は自著『私の教え子ベストナイン』の中で、言葉の大切さについて次のように綴っている。
《人間社会において、言葉は常に大切だ。適切、的確な言葉で表現できるかどうかは、人間の度量を示す大切なものさしとなる。特に監督など上に立つ者が、部下のモチベーションを高めるために、言葉の使い方を間違えてはならない。監督は自らの意思を伝達することが仕事であり、伝達の道具が言葉なのだ》
今の球界で、これほど言葉に神経を向けている人物は果たしているのだろうか?
文=オグマナオト(おぐま・なおと)