2月上旬、ルーツベースボールアカデミーを訪れると「人と話をするのが大好き」というムードの養父鐵氏が気さくに出迎えてくれた。ルーツベースボールアカデミーは、養父氏が知人の経営するバッティングセンターの一角を間借りし、練習スペースから手作りした野球スクール。養父氏のデスクが置かれた、木造風アメリカンスタイルの洒落た事務所もコンテナを改造したものだ。
スポーツと音楽の編集や執筆を生業としている筆者の名刺にある「音楽制作」という文字を見た途端、養父氏が反応。大好きだというギターとオールディーズなロックンロールの話を楽しそうに振ってきた。
1980年代初頭にロカビリーブームを起こしたストレイ・キャッツのボーカル&ギター、ブライアン・セッツァーの来日公演では、終演後に楽屋を訪ねたという。また、亜細亜大時代は入来祐作(元巨人ほか)や井端弘和(元中日ほか)と同部屋だった合宿所にもギターを持ち込んで、気の向くままにギターを弾き、歌っていたという。自由人……そんな言葉が頭に浮かんだ。
「ギターはアメリカ時代に役に立ちましたね。移動中のバスのなかで日本人の僕がギターを弾きながら『ラ・バンバ』とか歌うと、スパニッシュ系の選手たちが大喜び。おかしなヤツがきたぞって(笑)。おかげでチームに溶け込めました」
パンチの効いた話からインタビューは始まった。養父氏は亜細亜大、日産自動車とアマチュア野球の名門チームを歩んだが、プロデビューは27歳と遅い。しかも始まりは、台湾の兄弟エレファンツだ。
養父氏は帝京三高時代と、日産自動車時代の4年目に、ある球団から告げられた指名の誘いを断っている。「大学にはいきたい」、「日産で結果を出してからプロにいく」。それが養父氏の返事だった。有言実行とばかりに、日産自動車での5年目にはスポニチ大会で好成績を残すも、結果は指名漏れ。チームからはコーチとしての将来を打診されるも、即答したのは日産自動車を去るという決断だった。
「僕はプロになるために日産に入った。だから『嫌です。だったら辞めます』と。でも、行き先はない。やばい。そうしたら台湾の知人からテストの誘いがきて、すぐに合格。兄弟エレファンツに入団することになったんです。僕は頭に描いていることを“できる”と思うタイプ。だからやるだけ。これが波乱万丈な野球人生の幕開けでした」
念願のプロ生活は、台湾で「外国人選手」として始まった。
2001年、養父氏は兄弟エレファンツで躍動する。月間MVPを3回受賞。1試合16奪三振の台湾記録を達成。台湾シリーズでは2勝2セーブでシリーズMVP。ゴールデン・グローブ賞も受賞した。この活躍をダイエー・王貞治監督(当時)がほってはおかなかった。同年秋のドラフト6位でダイエーに入団。同期は寺原隼人、杉内俊哉(現巨人)だ。王監督からは「よく頑張ったな」と声をかけられた。
2002年、「NPB、遅咲きのルーキーイヤー」が始まる。しかし、1軍昇格を目前にした7月に腰を痛め、同年10月1日に戦力外通告。球団は、コミュニケーション能力に長けている養父氏にバッティングピッチャーとしての道を打診した。養父氏はその申し出を断る。
「ここでも得意の『嫌です』(笑)と。すぐに日本を後にして、10月5日にはマイアミにいました。ダイエーではケガしたけど、台湾では結果を出したし、球のスピードも出ていた。『まだ、できる』そんな自信があったんです」
養父氏はただちにアメリカに飛んだ。とはいえ、戦力外通告の4日後? どうやってマイアミに? 縁をつないだのは2002年にダイエーに在籍していたカルロス・カスティーヨだった。ホワイトソックスで10勝を挙げたメジャーリーガーとして来日したもののコンディションが整わず、ダイエーでの1軍登板実績はゼロ。7月に帰国し、そのまま退団していた。
「外国人選手のカルロスはチームに馴染めなくて寂しそうにしていたんです。僕は台湾で外国人選手だったから、カルロスの寂しさがわかった。だから、よく食事に誘っていて」
恩を感じていたカルロス・カスティーヨは「クビになったら連絡をくれ。アメリカに来て野球を続けなよ」という言葉を養父氏に残していた。
「クビになった瞬間にカルロスに電話しました。そうしたら『うちに来い』と」
ビザの有効期限である3カ月間、養父氏はカルロス・カスティーヨの家に寝泊まりし、トレーニング。アルバート・プホルス(エンゼルス)、オーランド・ヘルナンデス(元ヤンキースほか)ら、そうそうたる選手たちに混じって練習した。必然的にたくさんのスカウトも訪れる。ラテン系の選手に交じる日本人は目立った。
「普通だとマイナーリーグ入り、つまりメジャーリーグの組織に入ること自体が難しい。でも、僕には周りに選手仲間がいたから。彼らが『養父はいいぞ!』とチーム関係者に伝えてくれて」
養父氏はホワイトソックスの入団テストに合格。傘下のチームに所属し、マイナーリーガーとして野球を続けることになった。持ち前のバイタリティとコミュニケーション能力で、道を拓いたのだ。
第2話ではアメリカ、ベネズエラ、メキシコでの野球生活、仲間との交流、苦難さえも楽しむかのようなバイタリティの源について聞く。
(※文中一部敬称略、第2話に続く)