大谷翔平(日本ハム)が交流戦で160キロを連発。一方で、杉内俊哉(巨人)が計測不能の超スローボールを投げたりと、今季はいつも以上に投手の「球速」が話題にのぼることが多い。そこで、日本野球におけるスピードガンの歴史を振り返ってみたい。
スピードガンが日本に伝わったのは1976(昭和51)年秋のこと。フロリダで行われた教育リーグに参加していた広島球団の幹部が、ここで初めてスピードガンを目撃する。ピストルのお化けのようなもので投手の球速が測れることに驚いた広島はさっそくスピードガンを持ち帰り、翌1977(昭和52)年から「伝説のスカウト」の異名をもつ故・木庭教氏がスカウト活動のなかで利用するようになったという。
テレビの野球中継のなかでスピードガンが利用されるようになったのは1979(昭和54)年4月1日から。後楽園球場で行われたセ・リーグ開幕戦、巨人vs阪神の中継で、日本テレビがはじめてスピードガンによる球速表示を開始した。
1979年といえば、甲子園大会の歴史でも史上最速と呼び声が高い「怪物」江川卓が巨人に入団した年であり、のちに「スピードガンの申し子」と呼ばれる小松辰雄(中日)が150キロのストレートを武器にプロ初勝利を手にした年でもある。
中日の本拠地・ナゴヤ球場では翌1980(昭和55年)4月5日、他球場に先駆けて、左中間外野席上段にスピード表示用の電光掲示板が登場。小松の活躍も相まって、球界全体で投手の球速を計測するのが一般的になっていった。
昨夏、済美高(愛媛)のエース・安樂智大が甲子園最速タイの155キロを記録して話題となった。
しかし、高校野球の試合でオーロラビジョンに球速が表示されるようになったのは2004(平成16)年のセンバツから、と最近のこと。もちろん、それまでも甲子園のオーロラビジョンで球速表示は可能だった。ただ、球速と同時にスポンサー名が表示される仕組みだったことから、高校野球にはふさわしくない、として表示が見送られていた経緯がある。それ以前の、寺原隼人(宮崎・日南学園高、現ソフトバンク)や松坂大輔(神奈川・横浜高、現メッツ)の球速はテレビ中継用や、スカウトのスピードガンの数字で報道されることが多かった。
ちなみに、安樂とともに、甲子園最速タイの155キロを計測したのは、仙台育英高(宮城)時代の佐藤由規で2007年のこと。