9月9日現在、89打点はパリーグの打点王。24本塁打もトップの中田翔、アブレイユ(ともに日本ハム)に4本差の3位。さらに長打率の.565でも、スラッガーの指標とも言われるOPS(長打率+出塁率)の.943でもリーグトップ。まさか“あの浅村”がこんなタイプのバッターになるとは…。想像さえしなかった。
4年前の夏、浅村は「スター不在」と言われた大阪桐蔭のトップバッターを務め、チームを日本一に導いた。6試合、34打席に立ち、30打数17安打、2本塁打。まあ、見事に打ちまくったが、その時は1番ショート。前年の秋からレギュラーとなったが、当時は3番ショート。それを甲子園で「より浅村の積極性が生きる」と西谷浩一監督の決断で1番を打つようになったところの大爆発だった。
あの夏、甲子園へ皆勤で通った僕は、浅村の打席に1つテーマを持って見ていた。それは大阪大会から目立っていた積極性で、あとでビデオも使い確認したところ、浅村は敬遠気味に歩かされた4四球を除く30打席中、実に24打席でファーストストライクに手を出していた。とにかく積極的で、トップバッターにはうってつけのタイプに見えた。
当時、阪神のスカウトで関西を担当していた山口高志氏(現阪神コーチ)と甲子園の直後に話をすると「動きが俊敏で外野の間をライナーで抜いていくバッティングは大学時代の田口(壮/元オリックスほか)を思い出させる。田口も大学の時はショートだったし、大舞台での強さ、積極的なプレースタイルも似ている」と話していた。まさにそのタイプの選手だったのだ。それが…。
山口氏はその時「もうちょっと静かにしとってくれたらよかったのに…」と苦笑いも浮かべていたが、もし、あの甲子園の活躍がなければ、おそらくドラフトでは下位指名だっただろう(実際には西武の3位指名)。それまでの大阪桐蔭には中村剛也(西武)、西岡剛(阪神)、平田良介(中日)、辻内崇伸(巨人)、中田翔…とにかく超高校球を続けて輩出していた。それらの「先輩」に比べれば、当時の浅村のスケール、評価、注目度は、遠く及ばなかった。それが今や、中村不在の西武で堂々と4番を張り、本塁打王争いでも故障中とは言え、中田に迫る勢い。わからないものだ。