7月1日、富士山の山梨県側では山開きを迎えた。初日はあいにくの悪天候で登山の中止を呼びかける事態となったが、これからいよいよ富士登山の本格シーズンを迎える。今年こそ日本一の山を登ってみたい、という人も多いだろう。
まだ立教大学に入学したばかりの1954年6月。父・利さんが危篤という知らせが合宿所に届き、急ぎ千葉県佐倉の実家に戻った長嶋。臨終間際、父の最後の言葉は「野球をやるからには六大学一番の選手にならんといかんぞ。プロに行っても富士山のような日本一の男になれ。わかったか」だったという。
この父の遺言の通り、在学中に東京六大学リーグ新記録(当時)となる8本塁打を放ち、一躍スター選手になった長嶋。そして、当時最高額の契約金1800万円で読売ジャイアンツに入団し、以降の活躍は今さら語る必要もないだろう。
入団4年目、1961年のシーズン前から富士山を眺められる箱根・仙石原で自主トレをしていた長嶋。しばらくするとマスコミにその場所が漏れたこともあり、1966年からは伊豆・大仁ホテルの離れで自主トレに励むようになった。
この離れの名前こそ「富士の間」。自著『野球は人生そのものだ』に、その自主トレの様子が描かれている。
《あえて狭い日本間の中にネットを張って神経を研ぎ澄まして打った。部屋を傷つけないように気が抜けない。打ち終わるとバッタリと倒れ込んだ。プロは厳しいから必ず、オーバーホールしないともたない。体を鍛えないとついていけなくなる。マッサージのトレーナーを同伴。午前八時に起きて十キロから二十キロの獣道を走る。夜は五百回スイング。一日、三〜四回は温泉で筋肉をほぐした》
毎日3〜4回入っていた温泉からは富士山が一望できた。特にお気に入りは夕暮れ時には夕日に染まる赤富士を眺めることだったという。今でも、この大仁ホテル「富士の間」は、長嶋ファンが足繁く通うパワースポット。「部屋を傷つけないように」とあったが、室内での打撃練習で打ち損じた際のボール跡が今も部屋の柱に残っている。
常日頃から富士山を意識していた長嶋。それゆえ、富士山の絵も大好きで、梅原龍三郎、林武らが描いた富士山の絵を部屋に飾って、眺めるのが趣味の1つだった。
やがて富士山への熱意が高じ、自ら筆をとって富士山の絵を描くまでになった。東京芸術大学名誉教授の絹谷幸二と合作した油絵のタイトルは「新世紀生命富士(しんせいきいのちふじ)」。富士山、太陽、裾野のゴルフ場をキャンパスに収めたその絵は、長嶋らしい、生命力あふれる富士の絵だった。
このように、いつも日本一の山を意識し、ときにその山から注がれるパワーで英気を養うことで「日本一の野球人」と呼ばれる存在にまでのぼりつめた長嶋茂雄氏。今も球界で最も富士山が似合う男であるのは間違いない。