人は彼のことを「天才」と呼んだ。卓越した打撃センス、初球から打ちに行く積極性、ケガを恐れないアグレッシブな外野守備、努力の跡を感じさせないスマートさ…。
巨人・高橋由伸の持つ華やかさに多くの野球ファンが魅了された。しかし、彼の現役生活は天国と地獄を味わった、波乱万丈の18年間だった。
桐蔭学園高、慶應義塾大と学生野球のエリートコースを辿ってきた高橋は、1997年ドラフト1位(逆指名)で巨人へ入団。1998年4月3日の開幕戦に「7番・ライト」でデビューし、その試合でプロ初安打、7日の広島戦でプロ初本塁打を放ち、大器の片鱗を見せる。
攻守で新人離れしたプレーを見せつけ、シーズン半ばには5番打者に定着。打率.300、19本塁打、75打点と結果を残し、新人王こそ逃したものの、ゴールデングラブ賞を受賞。
特に大学時代からのライバル・川上憲伸との対決には燃えた。対戦成績こそ22打数1安打だったが、唯一の安打は本塁打と意地を見せた。
翌1999年、高橋は進化した姿を見せつける。序盤から打撃好調で、5月5日の阪神戦では、プロ入り初の4番に座る。シーズン終盤にケガで戦線離脱するも、打率.315、34本塁打、98打点と前年を上回る数字を残し、オフの契約更改では4000万円から大幅アップの1億円(推定)でサインした。
その後は松井秀喜、清原和博とともに強力なクリーンアップを形成。2000年、2002年と2度の日本一に貢献した。2003年からはヤンキースへ移籍した松井に代わって選手会長に就任し、リーダーとしても活躍の場を広げる。
グラウンド上ではプロ野球タイ記録となる11打数連続安打をマークし、名実ともに巨人の顔となる。さらに同年オフのアテネ五輪予選、2004年のアテネ五輪本選と、日本代表に選出され、主軸として活躍した。年俸は3億4000万円となり「今後の球界のリーダーは高橋由伸だ」と誰もが感じていた。
順風満帆なプロ野球生活を送ってきた高橋だったが、2005年に初めての試練が訪れる。
5月に右肩、7月に右足首と、いずれもフェンス際でのプレーで痛め、長期離脱を余儀なくされた。結果、この年は88試合の出場に終わり、プロ入り初の規定打席未到達に。
さらに翌2006年には、2度もダイビングキャッチの際に負傷するなど、持ち味である全力プレーが仇となり、2年続けてケガに泣かされる。
この時期、チームも5位、4位と、球団初の2年連続Bクラスとなり、高橋の不調がチームの結果に直結してしまった。
しかし2007年、高橋は不死鳥の如く甦る。「1番・ライト」で出場した横浜(現DeNA)との開幕戦では、1回表に相手先発・三浦大輔の投じた初球をライトスタンドに運ぶ「開幕戦、初球先頭打者本塁打」を放つ。
シーズンを通して1番打者に固定された高橋は、プロ野球新記録の初回先頭打者本塁打9本をマークする活躍。キャリアハイの35本塁打で、5年ぶりのリーグ優勝の原動力となった。
ところが2008年、高橋に再び悲劇が襲う。シーズン途中に腰痛を発症し欠場すると、翌2009年になっても状況は変わらず、わずか1打席だけの出場に留まる。9月には腰の手術を行い、再起を誓った。
2010年には、腰の負担を減らすため主にファーストを守り、116試合に出場。この頃になると、チームの顔は後輩の阿部慎之助に変わり、坂本勇人、長野久義ら若手がチームの主力となっていく。翌2011年オフには、年俸3億5000万円から1億7000万円と、大幅ダウンを経験してしまった。
プロ15年目となった2012年は、主に6番打者として出場。8月17日の広島戦では、通算300本塁打を記録。打率こそ.239と低かったものの、ここぞの場面で打つ勝負強さを発揮した。
その勝負強さは大舞台でも発揮された。翌2013年の日本シリーズ第6戦では、5回にシーズン無敗の田中将大(当時楽天)から、勝ち越しタイムリーを放ち、巨人を勝利へと導く。
2014年からは代打での出場がメインとなり、コーチ兼任となった翌2015年には、代打の打率.395と高い数字を残した。
そして10月17日、ヤクルトとのCSファイナルステージ第4戦の9回表2死。逆転の望みを託されて代打として打席に入った高橋は、空振り三振に倒れた。
まさかこの打席が高橋由伸・現役最後の打席になるとは、ファンも、そして本人も想像していなかっただろう。