2004年のアテネ五輪で銅メダル獲得に貢献し、2005年は自身の初タイトルとなる首位打者と最多安打を獲得するなど、名実ともに球界を代表する打者となった和田一浩(西武)。
2006WBCの代表チームにも当然のように選ばれたが、なんと尿管結石になってしまい、第1ラウンドの台湾戦と韓国戦に代打出場しただけで終わってしまった(2打数0安打1三振)。
アテネ五輪では、打率.333、2本塁打、6打点をマークし、国際大会に強いところを見せていただけに残念極まりない結末となった。
現在もソフトバンクで活躍する五十嵐亮太とともに「ロケットボーイズ」を形成し、2000年代前半のヤクルトのブルペンを支えた石井弘寿。和田と同様にアテネ五輪でも活躍していたことから、2006WBCのキーマンとされていた。
しかし、第1ラウンドの韓国戦で救援に失敗したうえ、左肩痛を発症する憂き目に。その後、第2ラウンドに向けてアメリカに渡ったものの、無念のリタイア。
ちなみに、石井の代替選手に選ばれたのは馬原孝浩(ソフトバンク)。この大会では1度も登板せずに終わったが、2009WBCでは5試合に登板し、悔しい過去を払拭した。
2006WBCで、主に9番・遊撃として出場していた川崎宗則(ソフトバンク)。打撃が好調だったことから、決勝のキューバ戦は1番に大抜擢された。
その決戦の9回、心酔するイチロー(マリナーズ)の右前安打で二塁走者の川崎は一気にホームへ生還。捕手のブロックの隙間を縫って右手でホームベースにタッチした鮮やかさから、「神の右手」と崇められたが、タッチ後の捕手との接触がアダとなって右ヒジを負傷。宮本慎也(ヤクルト)と交代したため、優勝の瞬間をグラウンドで迎えるができなかった。
また川崎は、2007年の北京五輪のアジア予選・韓国戦でも初回から一塁へヘッドスライディング。このプレーにイチローは「1回からヘッドスライディングなんてバカげたことをやりやがって」と弟分・川崎を独特の表現で注意した。ヘッドスライディングは故障のリスクが高まるうえに、ベースを駆け抜けた方が早いというポリシーを、イチローが持っているからだ。WBCのときは故障した川崎を二塁ベース上から心配そうに見ていたイチローも、北京五輪の予選で見せた川崎のプレーには我慢ならなかったようだ。
2009WBCでは、村田修一(横浜)が悲劇のヒーローに。この大会で村田は4番や5番を任され、安打と打点を量産していた。
事件が起こったのは第2ラウンドの韓国戦。6番・一塁で出場した村田は第1打席から快調に安打を放った。そして第2打席、またもや安打を放ったところまではよかったが、ベースを回ったところで、村田が苦悶の表情を浮かべる。
右太もも裏を痛めたということですぐさま交代。打率.320、2本塁打、7打点という好成績を挙げながら、途中帰国を余儀なくされた。この後、村田の代わりに召集されたのは栗原健太(広島)だった。
主砲を欠いた日本代表だったが、このアクシデントで結束が強まったのか、準決勝でアメリカを、決勝で再び韓国を撃破し、WBC2連覇を達成。表彰式では、当時のチームメイトだった内川聖一が、村田のユニフォームを被せたトロフィーを掲げるパフォーマンスを見せた。
2013WBCは大きな故障者を出さずに終えることができた。しかし、WBCが「世界一を決める大会」である以上、通常とは違う雰囲気のなかで、選手のモチベーションは非常に上がっている。そう考えると無理なプレーをしてしまい、故障のリスクはレギュラーシーズン以上に高くなる。
だが、選手に躊躇があったら、川崎の「神の右手」などは絶対に拝めなかっただろう。そんなリスクを伴う極限のプレーにファンは熱狂する。それも事実だ。
当然、故障者が出ないことを願っている。しかし、故障を恐れないプレーから生まれる名場面もある……。難しい問題ではあるが、間近に迫ったWBCでどんなプレーを見せるのか、侍ジャパンの戦いに期待したい。
文=森田真悟(もりた・しんご)