現役プロ野球選手のなかで、球界きっての俳人、といえば西武の小石博孝だ。
俳句好きになったのは鶴崎工時代、国語の授業で「伊藤園 お〜いお茶 新俳句大賞」に俳句を応募したのがキッカケ。各都道府県で5人選出される「都道府県賞」を受賞した。
ちなみにこのとき詠んだ句が「二人きり いつも以上の 心臓音」。高校生らしい初恋の句かと思いきや、野球部で監督と二人きり、怒られているときのドキドキ感を詠んだものだという。
プロ入りの際もこの経歴に注目が集まった小石は、キャンプ前の出陣式で「大勢の ファンに囲まれ 勇気出て いざ旅立ちの 宮崎へ」の短歌を披露。初勝利の際のお立ち台では「初志貫徹 負けぬという気持ちで 初勝利」と詠んでファンを喜ばせた。
今季6月、プロ初セーブを記録した小石。その気持ちはどう詠んだのだろうか?
先月、その訃報が大きく報じられた往年の名司会者、大橋巨泉。その原点にあったのが俳句と野球だった。
「巨泉」という名は、もともとは中学時代からたしなんでいた俳句における俳号。早稲田大学で俳句研究会に所属するほど俳句に打ち込んでいた大橋少年は、ファンだった巨人軍の「巨」と、 尽きないアイデアを表した「泉」を組み合わせた俳号を高校のときに使い始め、のち芸名になった。
つまり、野球と俳句がなければ、TV界のスターは生まれなかったわけだ。
実際、司会業で活躍しはじめた際、「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズで脚光を浴びたことはあまりにも有名だ。その後、巨人ファンをやめたと公言する機会も多かったが、2014年には長年にわたって親交のあった王貞治(現・ソフトバンク球団会長)との共著『頑固のすすめ』を発表するなど、個人的なつながりは続いていた。
野球と俳句、というテーマで欠かせないのが文豪・正岡子規だ。1884(明治17)年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、自身も熱中。郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。
また、「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」「今やかの 三つのベースに 人満ちて そヾろに胸の 打ち騒ぐかな」など、野球を題材とした短歌、俳句を数多く詠み、幼名の升(のぼる)にちなんで「野球(の・ボール)」の俳号を使用したことでも知られている。
もっとも、これはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の俳号として使っていたもの。その後、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳。一方の正岡子規は「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの訳語を生み出した。
2000年、郷里の松山に誕生した球場名は、夏目漱石の作品名にちなんで「松山坊っちゃんスタジアム」。ただ、球場そばには「草茂み ベースボールの 道白し」という子規が詠んだ句碑が建立されている。没後100年の2002年には野球の普及に多大な貢献をした評価で、野球殿堂入り(特別表彰)を果たした。
さて、そんな正岡子規の名が甲子園で話題になったのが2015年のセンバツ大会。母校、松山東(旧・松山中)が82年ぶりにセンバツ出場を果たしたからだ。
この松山東出場で気を利かせたのが選手宣誓を務めた敦賀気比の篠原涼主将。選手宣誓において「グラウンドに チームメートの 笑顔あり 夢を追いかけ 命輝く」と短歌を織り交ぜ、注目を集めた。
ここまでは当時、ニュースでも大きく取り上げられたため、ご存じの方も多いだろう。この選手宣誓エピソードには続きがある。松山東の応援のため甲子園に駆けつけた同校俳句部が、選手宣誓で詠まれた短歌に対して、返句となる俳句を詠んだのだ。
「春光(しゅんこう)や 命漲(みなぎ)る グラウンド」
さすがは俳句甲子園の開催地、松山市の高校といえる。実際、松山東俳句部は、「俳句甲子園」で優勝2回を誇る名門校だ。
そんな「俳句甲子園」。今年は8月20日、21日に行われる。夏の甲子園同様、高校生の熱い戦いに注目だ。
(文中、敬称略)
文=オグマナオト