オートレースは他の公営競技と比べて、地元選手へのファンの思い入れが強いといわれている。どのレース場でも所属選手への応援はひときわ激しい。そのなかで、飯塚オートにおいて伝説として語り継がれている選手が存在する。今は亡き中村政信だ。
中村は1985年に飯塚所属の選手としてデビュー。1990年代には数々のグレードレースで優勝。1995年には全日本選抜オートレースでSG初制覇を果たした。通算541勝、グレードレース優勝14回、SG戴冠2回という堂々の経歴を持つ。しかし、まだこれからという1999年に、レース中の落車事故でこの世を去ってしまった。
中村が活躍していた頃のオートレースは、船橋オート(千葉県・今年3月に廃止)所属選手の全盛期。逆に中村所属の飯塚オートは長らく低迷していた。中村のSG制覇は九州のファンに夢と希望を与えたといっても過言ではない。
中村亡き後の飯塚オートは、中村の遺志を受け継いだ若武者たちを数多く輩出。2000年代にはSGタイトルホルダーを何人も擁し、「飯塚最強軍団」と呼ばれるまでになった。
そのなかのひとり、浦田信輔が地元でSG初優勝を飾った際には「政信さんが勝たせてくれた」と、涙ながらにコメント。
飯塚オートでは中村の死を悼み、彼の車名に由来する「トーマスメモリアルカップ」を開催(現在は廃止)。今でも彼の練習番号は永久欠番とされている。
中村がオートレーサーとしてデビューした1985年といえば、南海ホークス低迷期の真っ只中。南海、ダイエーと親会社が変わるなか、20年連続Bクラスという不名誉な記録を作ってしまった。
しかし、奇しくも中村が殉職した1999年に、王貞治監督率いる「ダイエーホークス」として優勝。その後のホークスが見せた2000年代の躍進、ソフトバンクになってからの勝ちっぷりは説明するまでもないだろう。ホークスは「常勝軍団」になったのだ。
ちなみに、ホークス躍進の立役者といえば、ダイエー時代に球団の土台を構築した「球界の寝業師」こと根本陸夫氏。根本氏も1999年に他界しており、その後の黄金時代を自分の目で見られなかった点も中村と共通している。
プロ野球とオートレース。競技は違えど、地元に密着して地域に活力を与えている点では同じだ。その礎を築いた偉大な2人のご冥福を、あらためて祈りたい。
文=サトウタカシ (さとう・たかし)