ひらがなで日常を書き込む彼にフェイスブックの話を向けると、驚きの言葉が返ってきた。流暢な日本語は、カタコトをはるかに超え、日本人のあんちゃん相手に話しているような錯覚を起こしてしまう。
来日5年目。日常のコミュニケーションを重ねていくことで覚えた日本語は、オフシーズンに寮を出て借りるアパートは、自分で探すレベルである。
「ベネズエラ人はみんなそうだから」と彼は笑う。
「アメリカでプレーした時だって初めはほとんど英語、しゃべれないからね。だんだん覚えていくんだ」
決して豊かでない母国からアメリカンドリームを夢見て海を渡る同胞のほとんどは、マイナーからキャリアを始める。そこに通訳などいるはずがなく、自分で英語をマスターしていかねばならない。現地の言葉を習得しないことが、プレーの場をなくすことであることを彼らベネズエランは本能のように自覚している。
来日以来、母国に帰ったのは2年前のクリスマスだけだという。
「飛行機代も高いしね。もうベネズエラが恋しいということもないかな。日本にも家族のように世話をしてくれる人もいるからね。ジムも使わせてくれる人がいるんで、トレーニングもできるんだ」
2006年にホワイトソックスと契約してプロキャリアをスタートした彼が、来日したのは2011年。その直前のウインターリーグを視察に来ていた関西独立リーグのスカウトに声をかけられたのがきっかけだ。
「やっぱり野球のスタイルは違うからね。最初はびっくりしたけどもう慣れたよ」
来日2年目。BCリーグと交流戦に際し、イースタン・リーグとのダブルブッキングのため人が足りなくなったDeNAに練習生として駆り出されたのがきっかけとなり、富山サンダーバーズに加入したのが大きな転機となった。NPBのテストも受けたものの契約を勝ち取ることはできなかったが、彼は日本に残ることにした。
翌2013年からは福井ミラクルエレファンツに移籍し、今ではチーム最古参だ。彼が打席に立ったときのひときわ大きい声援は、人気実力ともチームナンバーワンであることを示している。
今シーズンは、それまでの外野やファーストからサードへのコンバートに取り組んでいるという。そのせいもあってか、取材したゴールデンウイークの頃は足の調子が思わしくなく出番はなかった。しかしそれでも、ベンチでチームメイトを鼓舞する様にスタンドのファンから声援が飛んでいた。