1960年7月17日の巨人対大洋戦。5回2死二塁の場面で、打席には巨人の長嶋茂雄。大洋バッテリーは、立ち上がって敬遠球のようなボールを投げたかと思えば、次は座ってストライクという幻惑作戦で長嶋に挑んだ。
迎えた4球目。捕手は立ち上がり、投手は明らかに高めに外れるボール球を投げた。すると長嶋は、このボール球を大根切り。打球はレフトの頭上を越え、さらに野手の転倒も重なって、俊足・長嶋は一気にホームへ。まさかのランニングホームランが生まれたのだ。
長嶋はこの試合以外でも敬遠球を打つことが何度かあり、また、敬遠に抗議してバットを持たずに打席に立ったことでも知られている。魅せる野球が信条の長嶋茂雄にとって、見せ場を無くしてしまう敬遠は何よりも憎むべき作戦だったのだ。
1981年7月19日の日本ハム対西武戦。6回、2死三塁で日本ハムの打席には柏原純一。捕手が敬遠のために立ち上がると、その3球目、柏原は思いっきり踏み込んでバットを一閃。打球は平和台球場の最前列に飛び込むツーランホームランとなった。
これには、日本ハムの監督である“大沢親分”も「痛快じゃねぇか、なあ」と大喜び。敬遠球をスタンドまで運んだのは、この柏原の打球がはじめて、といわれている。
1990年6月2日の巨人対広島戦。この日は巨人・桑田真澄、広島・金石昭人の両投手が好投を演じ、1対1のまま9回裏の巨人の攻撃。2死二塁でクロマティが打席を迎えた。
カープバッテリーの作戦は敬遠。その外角高めに外れるボール球をクロマティは狙い撃ち。ライトオーバーのサヨナラヒットが生まれた。
クロマティはこの1990年が巨人最終年。最後まで「記憶に残るプレー」を続けたからこそ、いまだに「巨人軍史上最強助っ人」と呼ばれるのだ。
1999年6月12日。首位を走っていた阪神と巨人の伝統の一戦は、4対4で延長戦に突入。延長12回裏、走者一、三塁の場面で、打席には阪神の若きスター、新庄剛志を迎えた。
巨人のマウンドは槇原寛己。その2球目、外角に外した敬遠球を思いっきり踏み込んで打った打球は三遊間を抜け、サヨナラヒットに。一球目があまりコースから外れていなかったため、二球目の前にさりげなく打席の一番前に立ち、狙って打ったヒットだった。
このとき、阪神ベンチから「打ってもいい」と目で合図を送っていたのが、かつて敬遠球をホームランにした柏原純一打撃コーチ。この数日前、新庄から「敬遠の球って打ってもいいんですか?」と相談され、「俺なんか敬遠のボールをホームランにしたことがあるぞ」と答えたばかりだったという。
そして、巨人ベンチでこの場面を目撃したのが、これまた「敬遠男」だった長嶋茂雄監督。かつての自分は棚に上げて、「打席から足が出ていたはずだ」と猛抗議したが実らなかった。
試合後のお立ち台で「明日も勝つ!」と吠えた新庄。ところが翌日、見事に敗れたところがまた、新庄劇場たる所以だろうか。
これら「敬遠球を打った」エピソード以外にも、忘れてはならない「松井秀喜の5打席連続敬遠」など、野球ファンにとっては敬遠四球を巡るエピソードだけで一晩語り明かせるほど。試合のスピードアップももちろん大事だが、イチローが言うように「野球を変えてしまうのではないかと心配」してしまう。
それにしても、振り返ってみれば敬遠球を打つような選手は、揃いも揃って個性派揃いだ。一番大事なことは、ルールをも超越してしまう、一癖も二癖もある野球人がまた登場することなのかもしれない。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)