あれから、もう、13年になる。
現在、ソフトバンクでプレーしている城所龍磨を取材したのは、2003年6月のことだ。当時、城所は岐阜・中京高の3年生。俊足、強肩、しかも、高校通算30本塁打以上を放つ、スケールの大きい一番打者の有望外野手として、すでにドラフト候補に名前が挙がっていた。そのため、それまでの季刊誌から隔月誌として創刊されることになった『野球小僧2003年8月号』の、「今夏注目ドラフト候補&監督直撃インタビュー」に掲載されるページとして、城所のインタビューを行うことになったのだ。
ちなみに、この年の中京高は、城所以外に、エース右腕の榊原諒(元日本ハムほか)や、4番打者の中川裕貴(元中日)もプロから注目されており、いわゆる「タレント揃いのチーム」だった。2002年の夏には、この3人が2年生ながら主戦として甲子園に出場しており、その年、秋の明治神宮大会で優勝。年が明けて3月のセンバツでは3回戦で平安(現龍谷大平安)に2−3で惜敗したものの、その後の春の大会では東海大会を制しており、夏も引き続き全国制覇が期待される実力校として注目されていた。
取材当日は、インタビューの前に練習試合が組まれていたため、まずは城所のプレーぶりをじっくりと見させてもらった。
まず、バッティング。前年の神宮大会で直接見たときと同じで、どの球に対しても軸回転を崩さずにスイングするタイプだ。小兵の俊足選手にいるような「走り打ち」は滅多にない。ただし、インサイドの球を打つ際には、やや、窮屈となる。
続いて、走塁。雑誌などで、すでに速いと紹介されていたが、私が神宮大会で一塁かけ抜けタイムを計測したときは、最速で4秒18。これは決勝の延岡学園戦でセカンドゴロを打った際のものだが、この大会では同程度の4秒10後半で走る選手がほかのチームにも数人いて、さらに、同じ中京高の1年生だった引本浩太(トヨタ自動車/2013年引退)は4秒11を計測していたため、城所が特別抜きん出ているという印象はなかった。実際に走っている姿を見ても、背筋がピンと伸びた律儀なフォームで、ピッチよりもストライドメインという感じのせいか、それほど速くは見えなかった。
しかし、ストライドが広い選手の場合、「見た目はあまり速そうではないが、タイムはいい」というケースはまれにある。実をいうと、このことは、ずっとあとになってわかったことで、たとえば、最近なら健大高崎高で活躍し、2014年秋のドラフト7位でロッテ入りした脇本直人などもそうだった。当時は、それがわからなかったが、今思えば城所もそのタイプだった。
さらに、もうひとつ城所の大きな「売り」だった強肩については、この練習試合でハッキリと見ることができた。センター定位置付近からの矢のような返球は高校生レベルをはるかに上回るものがあり、「肩については、間違いなく高校トップクラス」と改めて実感したのを、よく覚えている。
城所とインタビューともに、小嶋雅人監督のインタビューも行った。
ご自身が現役選手のときにプレーした亜細亜大から受けた影響や、1995〜98年の間、中京高の軟式野球部の監督として2回も全国制覇したこと。そして、このときすでに亜細亜大の三塁手として東都大学リーグで活躍していた中京高OBの松田宣浩(現・ソフトバンク)について、高く評価をしていたのが印象的だった。
「城所は、まだ、子どもっぽいところがありますよ。松田の方が、同じ時期の人格的ははるかに大人でした」
このときは、「へぇ〜」と思った程度だったが、数年後には、その言葉を実感させられることになる。城所はこの年の秋のドラフトで、予想以上の好評価となるドラフト2位でソフトバンクに指名され、プロの舞台へ。一方、松田も亜細亜大で活躍し、2005年秋に希望枠でソフトバンクに入団。高卒選手として一足先にプロ入りした城所が、ファームでは活躍できても1軍で大きな実績を残せず壁にぶつかっていたのを尻目に、松田は1年目からほぼ1軍に定着して、3年目の2008年には142試合に出場するほどのレギュラー三塁手になってしまった。
年齢的には、松田の方が2年先輩なのだから、当然といえば当然だが、プロとして先んじて経験を積んだ2年間だけでは、年齢の差を埋めきれないものがどこかにあったということだろうか。
小嶋監督の見立てに、つくづく感心させられるばかりであった。
城所は、5年目の2008年までは、1軍と2軍をいったり来たりを繰り返すシーズンが続いた。初めてインタビューをした選手だっただけに、ふと気になって現状をチェックすることも時折あった。
このまま、1軍半のような立場でくすぶり続けるのか? と心配していたところ、2009年のシーズンになって、ようやく1軍完全定着の足掛かりをつかみだした。だがしかし、それは、代走と強肩を生かした外野守備である。このシーズン、自己最多(当時)の91試合に出場した城所は、この頃を分岐点に代走、守備固めの役割が圧倒的に多くなっていく。
その後も、城所の1軍での出場試合数は増加し、2011年には108試合に出場。チームにとっても、欠かせない存在となったが、打席数の方は、毎年、試合数の半分以下になった。2008年までは、むしろ毎年打席数が試合数を上回っていたことを考えると、2009年は城所がレギュラーを目指す選手であることを捨て、守備と走塁のスペシャリストに専念するようになるターニングポイントであったといえるだろう。
もちろん、代走や守備固めだって、実力がなくては務めることはできない。しかし、それまでは、柴原洋や村松有人のようなダイエー・ソフトバンクで代々存在感を示していた俊足好打の外野手の後継者として、本人や身近な関係者がその夢を抱いていたのは間違いないことであり、それを諦めて割り切るにあたっては、それなりの葛藤があったはず。プロの世界に踏み入れただけでも、野球界では十分エリートではあるが、そこでもまた、レギュラーという花型から、より長く生き残るために控えに回るという決断を下す時がくる。プロの厳しさを、垣間見た思いがした。
かくして、城所はスーパーサブとして、ソフトバンクの1軍のベンチメンバーにその名を連ね続けている。他球団をはるかに凌駕する選手層の厚いチームのなかで、並み居る優秀な外野手の襲来に押しのけられることなく、生き残っていることを考えると、スペシャリストに専念したのは、成功だっただろう。
正直なところ、城所の高校時代のプレーを見て、そこからはじき出された期待感からすると、現在の状況は若干物足りないかもしれない。だが、高校の同期で、当時は4番を打っていた中川裕貴も、エースだった榊原諒も現役から退いている。気がつけば、城所一人が生き残った格好だ。個人的に最初に取材をした選手が、地道に生き抜いているのは大変嬉しい。