玉野光南といえば、外野を守る岡部伶音選手にまつわる記事が朝日新聞で掲載され、話題を呼んだ。
《ライバルは福島の仲間、転校前「甲子園で会おう」》
岡部選手は福島県南部の白河市出身。2011年3月11日、小学6年の卒業式間近に東日本大震災に襲われ、県外へ避難。中学からは岡山県で過ごすことになったという。
《転校直前、野球部のみんながグラウンドで開いてくれた「お別れ会」でのあいさつ。もう二度と会えないかも――。涙があふれた。他の部員も同じだった。一人ひとりの手を握って約束した。「甲子園で会おう」》(朝日新聞7月19日記事より)
岡部選手が「福島に戻りたい」とくじけそうになったのは、一度だけではないという。だがその度に、かつての球友たちとの約束を思い出し、「福島の友だちに見せられるよう、うまくなりたい」と練習に打ち込み、背番号「9」のレギュラーの座を勝ち取ったのだ。
阿部選手は、岡山代表を目指しながら、“福島代表”も目指してくれていたんだ、と思うと、少し胸が熱くなる。
あの震災から5年。福島県外に住んでいると、ともすると遠い過去のように感じてしまうことがある。だが、福島の人々にとって、そこで暮らすことは現在進行形中のリアルだ。もちろん、普通に暮らしている人も多いが、一方で、野球すらままならない、という状況に置かれている人も少なくない。
実際、阿部選手のように他県へ転出する生徒の増加によって、福島では「少子化」がひとつの社会問題となっている。特に福島第一原発周辺の学校では部員不足が目立ち、学校の統廃合も進んでいる。
今年の夏も、二つの高校が「最後の夏」を迎えた。ひとつは、かつて3度甲子園にも出場した双葉高校だ。
福島第一原発から約3.5キロにある同校は来春休校することが決定。かつて50人を超えた部員は3年生2人だけ。この夏の福島大会には3校の連合チームで出場した。結果は初戦敗退。それでも、最後の勇姿を見ようと球場にかけつけた家族、OBたちを前にして、双葉の松本瑠二主将は「負けはしたんですけど、人生の中で、本当に宝物の思い出になった」と語った。
そしてもうひとつが、今年の福島大会第8シードの小高工業高校だ。来年4月から小高商と統合して「小高産業技術」と校名が変わる小高工ナインは、球史に母校の名を刻みたい、とこの夏の戦いに挑んだ。
順調に勝ち進んだ小高工は準々決勝に進出。ベスト4をかけ、迎えた相手は福島が誇る王者・聖光学院。試合は中盤まで1点差の接戦を演じながら、最後に力尽き、2対6で敗戦。小高工野球部の最後の夏が終わった。
「最後の夏」を懸命に戦った福島の球児たち。一方で、福島で新たな歴史をつないでいく、という事例もある。聖光学院とともに県を代表する強豪校、日大東北の中村猛安監督だ。
中村猛安監督はPL学園出身。名門・PL野球部で2年秋から二塁のレギュラーを務めた人物だ。そして、父はあの中村順司氏。PL学園で甲子園通算58勝、優勝6回を成し遂げた、いわずと知れた名将だ。
そんなPL学園が今年、「最後の夏」を迎えたのはご存じの通り。だが、父から、そして自分自身が門を叩いて学んだPL野球のエッセンスを、今、福島で花開かせようとしている。毎年、夏の大会前には順司氏も激励に訪れるという。DNAは、遠く離れた福島で脈々と受け継がれているのだ。
福島の高校野球、といえば、聖光学院が今年、大会10連覇を達成したことがニュースとなった。そのなかには「一校独占は教育上よくない」「聖光ひとり勝ちでは県の野球のレベルが落ちる一方」といった論調も少なからずあった。だが、実情は決してそうではない。
福島大会の決勝戦は、毎年1点差、しかも最終回での逆転劇や延長戦の末にようやく聖光学院が勝利、という展開ばかり。今年の夏の決勝・聖光学院対光南戦もまた1点差。終盤8回裏に聖光学院がようやく逆転しての勝利だった。福島は、決して聖光学院の一校独占ではない。
そして、そんな聖光学院と、昨年まで3年連続で決勝戦で対戦し、1点差で涙を飲み続けたのが日大東北であり、中村猛安監督なのだ。今年の夏は準決勝で聖光学院に敗退。だが、日大東北にとっても、中村猛安監督にとっても、「夏」はまだこれからも続く。
そうなのだ。球児たちにとっては「最後の夏」であっても、その姿を見た後輩、観客が語り継いでいくことで、球児たちの物語はこれから先も続いていく。それこそが高校野球100年の歴史で紡いできた価値であり、野球のすばらしさなのではないだろうか。
文=オグマナオト