「日本で誰も手がつけられない投手になりたい」
楽天から1位指名を受けた安樂智大(済美高)は、指名挨拶に訪れた楽天幹部に、力強く宣言した。
人生を左右するドラフト会議だからこそ、毎年のように様々な名言・珍言が生まれる。今回は、ドラフト会議やその契約にまつわるドラマの中で生まれたさまざまな「言葉」から、ドラフト会議の50年の歴史を振り返ってみたい
山本浩司(浩二・広島1位)、田淵幸一(阪神1位)、星野仙一(中日1位)、山田久志(阪急1位)、東尾修(西鉄1位)、有藤通世(ロッテ1位)などなど、史上空前の当たり年といわれる1968年の第4回ドラフト会議。ドラフト名言の走りも、またこの年に生まれている。
注目選手が多かった中でも、最大の目玉、といわれていたのが、東京六大学リーグの本塁打記録を塗り替えた法政大の田淵幸一。そして、その田淵と相思相愛といわれていたのが巨人。だが、蓋をあけてみれば田淵を1位指名したのは阪神だった。
一方、巨人スカウトから「田淵を他の球団が指名したら君を1位指名する」と言われていたのが明治大の星野仙一。田淵が阪神に指名されたことで、自身の巨人指名を疑わなかった。ところが、実際に巨人が1位指名したのは島野修。星野は思わず、「“ホシ”と“シマ”の間違いではないのか?」とつぶやいた。ドラフト史上に残る有名な文句が生まれた瞬間であり、ここから星野の「打倒巨人」の野球人生が始まったのだ。
この第4回ドラフトでは、珍言系の名文句も生まれている。この年のドラフトで最大の掘り出し物、といわれるのが、阪急から7位指名された福本豊だ。社会人野球の松下電器で活躍していた福本だったが、上背がなかったこともあり、プロからはノーマークといわれていた。自分自身でもプロ入りは念頭になかったため、ドラフト当日は自分が指名されたことなど、まったく知らなかったという。
翌朝、会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て、「なんか おもろいこと載ってまっか」と聞くと、「オモロイってお前、阪急から指名されとるやんけ」と返されて驚いたという逸話が残っている。
ドラフト、と聞いて思い出すのはやはり1978年の「空白の1日」に端を発する「江川事件」だろう。巨人サイド、阪神サイドと登場人物も多いため、それぞれの立場からさまざまな言葉も生まれている。その中から、当事者、江川卓自身の言葉を引いていこう。
キャンプイン前日の1979年1月31日、ドラフト指名した阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に巨人の小林繁と交換トレードをすることが発表された。キャンプのための準備で忙しかった球界は、この発表で騒然。記者発表の場で次々の質問を重ねてくる記者たちに対して江川が発した言葉が「そう興奮しないで」だった。
正確には「まぁ、そうムキになって質問されても困るんですけどねぇ。興奮しないで、抑えて、抑えて」。だが、冷静を装う江川の言動が、逆に記者たちから反感を買ってしまう。
一方で、トレードされた相手側、小林繁は「阪神にお世話になることになりました。同情はしてほしくありません。ぼくは野球が好きですから」と殊勝なコメントを残したことで、江川=悪、小林=善、という構図ができあがったのは言うまでもない。
江川とともに、巨人軍とドラフト会議の間で翻弄された男、といえば清原和博だろう。甲子園最大のスター、PL学園高の清原がどのチームに進むのか、とプロ野球ファン以外からも注目が集まった1985年のドラフト会議。清原自身は巨人入りを熱望し、巨人サイドも清原を指名するものと思われていた。ところが、巨人が指名したのはPL学園高の盟友・桑田真澄。カメラの前では、涙ぐむ清原の姿が映し出された。
6球団からの競合の末、クジで交渉権を獲得したのが西武ライオンズ。だが当初は、社会人野球入りも噂された。だが、清原の決意を動かしたのが母・弘子さんの言葉だった。
「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい」
この言葉を原動力に、巨人を見返してやろうと思った清原は、1987年の日本シリーズで巨人と対戦し、また違った涙を流すことになる。だが、その後は巨人へのFA移籍も含めて、紆余曲折ばかりの清原。結局、見返すことができたのかどうかは判断が難しいところだ。
ドラフト会議、といえば、名司会者・パンチョ伊東(伊東一雄)の甲高い声から生まれた数々の名言も外すわけにはいかない。
中でも有名な珍コール、といえば、1972年ドラフトで大洋から4位指名された益山性旭の漢字を説明する際の「性旭の『性』はセックスの性」だろう。場内は笑いで包まれ、近くで聞いていた阪急監督の西本幸雄はウケすぎて椅子から転げ落ちそうになったという。
ほかにも、1987年ドラフトで日本ハムが6位指名した芝草宇宙(ひろし)の「宇宙」を説明するのに、「『ひろし』は『宇宙・コスモ』」と説明するなど、さまざまな「パンチョ節」でドラフトを盛り上げてくれた。
近年のドラフトで、議場がもっとも盛り上がった瞬間といえば、2011年のドラフトで、日本ハムが当時東海大の菅野智之を指名した瞬間だろう。
伯父の原辰徳が監督を務め、小さな頃からの夢だったという巨人入りを熱望していた菅野。しかし、日本ハムは菅野の1位指名を譲らず、「プロ野球として、あるべき指名をします」というコメントを残した。
「プロ野球として、あるべき指名をします」とは、その年一番いい選手を獲りにいく、ということ。
その年のドラフトでは、明治大・野村祐輔、東洋大・藤岡貴裕とともに「大学ビッグ3」といわれた菅野の右腕をそれだけ買っていた、という証だ。そして、巨人との競合の末に、日本ハムが交渉権を獲得したのだった。