チャーリー・スパイクスは1969年のドラフト1巡目(全体11位)でヤンキースに入団。1973年、1974年に2年連続で20本塁打以上を放ったが、それ以外に見せ場を作ることができず、1981年にテストを経て中日へ入団した。
開幕戦から5番・右翼で出場。中軸として大きな期待がかけられたが、その開幕戦で自打球を当て、翌日から欠場となった。
ここからリズムがおかしくなる。診察の際に、なぜかスパイクスはレントゲンを断固拒否。これは足にボルトが埋まっていたため、レントゲンでボルトが発見されることで、「古傷持ち」と見られるのを恐れたためだという。
このケガのせいで2戦目から2週間以上欠場。4月中旬に復帰するものの思うような成績を残せず、6試合で打率.122、1本塁打、6打点と鳴かず飛ばずだった。
開幕戦の自打球により調子を崩したのか。それとも、そもそも実力不足だったのか。その判断に苦しむところだが(いや、苦しまないか……)、もしあの自打球がなければレントゲンを恐れることもなく、落ち着いてプレーできたかもしれない。
2010年オフに横浜が獲得したブレント・リーチ。2010年はメジャー登板がなかったものの、マイナーリーグで通算10勝(5敗)をマーク。2009年にはドジャースで38試合に登板した実績もあり、2011年の先発ローテを担う存在として期待された。
しかし、2011年3月11日に東日本大震災が発生。キャンプからチームに合流し順調に調整を行っていたリーチだったが、ほかの外国人選手らとともに一時帰国。リーチを除く外国人選手が再来日するなか、リーチは開幕しても姿を見せなかった。
7月にようやく再来日となったが、調整不足がたたったのか8試合に先発して1勝7敗、防御率は5.95。期待に応えることができず、オフに自由契約となった。
もし、震災が起きなければ、もう少し活躍できたかもしれない。
1995年にダイエーでプレーしたケビン・ミッチェル。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年には本塁打王、打点王の二冠を獲得した大物として鳴り物入りで来日し、さらには契約金が1億円、年俸4億円という高額契約でも話題を集めた。
開幕戦には4番・左翼でスタメン出場すると初回、無死満塁で回ってきた初打席で本塁打を放ち、衝撃的な「満塁本塁打デビュー」を飾った。
元々「問題児」だと懸念されていたものの、バリバリのメジャーリーガーらしい挨拶代わりの一撃で、「大爆発してくれればOK!」と、この時ばかりはファンも思ったはずだ。
しかし、事態は懸念では収まらないレベルに……。
開幕から約2週間で「守備の負担がある」と指名打者での起用を首脳陣に訴えたり、体の状態がよくないと欠場が増えたり、しまいに5月上旬にはアメリカへ無断帰国したり……と問題児ぶりを発揮。7月下旬に再来日し、スタメン復帰を果たしたが、態度はあらたまらず、2度目の無断帰国をした8月に解雇となった。ついに球団の堪忍袋の緒が切れたというわけだ。
打率.300(130打数39安打)、8本塁打と試合に出場すれば、一定の活躍はしていたが、そもそも試合に出なかった(37試合)。見合わない高額年俸と問題児っぷりで強烈な印象を残したので、覚えているファンも多いことだろう。
そのミッチェルがダイエーを去った6年後の2001年には、いとこのトニー・ミッチェルが同じくダイエーに入団。こちらは問題を起こすことなく優等生だった。しかし、65試合で打率.193と成績は振るわず。「ケビンの実力+トニーの性格」なら優良外国人選手として一世を風靡したかもしれない。
文=勝田 聡(かつたさとし)