大学時代は通算わずか2勝、プロ志望届を出しても指名すらなかった右腕・石山泰稚(ヤマハ)。東海の名門・ヤマハで2年間腕を磨き、ドラフト1位指名を受けるまでの存在になった。しかし、社会人で急激に成長したわけではないと本人は言う。ここまで地道に努力を重ね、見る者を惚れ惚れさせるフォームを作ってきた男の足跡を辿った。
昨年の8月の都市対抗予選だった。マウンドに上がったヤマハのルーキー・石山泰稚はバランスのいいフォームから低めに140キロ台を連発。強豪・トヨタ自動車に対して一歩も怯まず、6回1失点の好投を見せた。マウンドでの美しい立ち姿や長い腕のしなり。思わず見とれてしまった。
試合後に話を聞くと、「大学時代は2勝しかしていません」と言う。これだけの逸材が大学時代2勝のみとは…。僕が驚いていると、「でも、プロに行くためにヤマハに来ましたから」ときっぱり。その決意と志の強さに好感を抱きつつ、石山のこれまでの野球人生に興味が沸いた。
石山が野球を始めたのは小学5年生と遅かった。周りと比べても身長は低く、それまで運動と言えば少林寺拳法を習っていた程度。
「高学年になり他のスポーツを始めたいと思いました。本当はバスケットボールやサッカーをやりたかったのですが、親に反対されて。でもなぜか、野球だけは許してくれました」
地元の旭北BCに入り、最初は内野手、6年生になると投手に抜擢されるが、進学した山王中では内野手での出場がほとんだった。
「中学は最後の方に少しピッチャーをやった程度。他にいいピッチャーがいましたし」
目立った成績を残すことはなく、いたって普通の中学生だった。
ところが、中学校のコーチと、金足農高の監督が知り合いだったことが縁で、強豪校である金足農高に入学することになった。
その際、そのコーチは石山に対して一つのアドバイスを送ったという。
「高校には内野手でいったら通用しない。とにかくピッチャーでいけ!」
ほとんど投手経験のない石山だったが、コーチはその肩の強さを見抜いていた。もし、このときにコーチに巡り合えていなかったら、後のドラフト1位投手は生まれていなかったかもしれない。
「入部したら同じ学年にすごいピッチャーが何人もいて。自分は絶対にエースになれないと思いました」
金足農高入学後、石山は来る日も来る日もバッティングピッチャーをこなし、コントロールの精度を増していった。この期間に身長も伸び、高校の3年間でなんと10センチ以上も大きくなった。
「当時はオーバースローですけど、今とは違い、右ヒザが地面につきながら投げていました。リリースの位置は低かったですね」
あまりに右ヒザを擦るので、出血してしまったほど。サポーターをつけないと、とても投げることができなかった。
そんな柔らかさを感じるフォームから2年時には最速139キロをマーク。入学当初は無理だと思っていたエースへと成長した。
最終的に甲子園こそ届かなかったものの、徐々に自信を深めた石山。上のレベルで勝負をしたいという欲が出る。
「どうせやるなら東北ナンバーワンのチームで」
自らセレクションに挑戦し、名門・東北福祉大に入学を果たした。
次回、「大学2勝止まりも開花間近」
(※本稿は2012年11月発売『野球太郎No.002 2012ドラフト総決算プレミアム特集号』に掲載された「26選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・栗山司氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)