高校球児コース別プロ入り物語 村田修一と新井貴浩。球界随一の「愛されスラッガー」の原点とは
「村田さん」と「新井さん」。彼らを呼ぶとき、なぜか「さん」付けで呼んでしまう野球好きは多いのではないか。
身体がよじれるほどのフルスイングを見せたかと思えば、チャンスでは相手の術中にはまりゲッツー。華麗なダイビングキャッチをしたかと思えば、簡単な打球をエラー。ファンを沸かせたり、嘆かせたり…観ていて飽きないのが冒頭の2人、村田修一と新井貴浩なのだ。
前回から連載スタートした「高校球児コース別プロ入り物語」の段階コース編。高校・大学時代を順当に過ごしてプロで大成した【順当型】と、高校時代は無名も、大学時代で覚醒してプロで大成した【覚醒型】を紹介するこのコーナー。
今回は順当型・村田と覚醒型・新井が、どうしてこのようなプレースタイルになったのか、アマチュア時代のキャリアを中心に振り返ってみたい。
通算300本塁打超のスラッガーはあの怪物がキッカケで誕生?
福岡出身の村田は中学時代から頭角を現し、高校は地元の名門校・東福岡高に進学。3年の春夏で甲子園出場を果たした。この時は主に「3番・投手」。“エースで主砲”の座を地で行っていた。
投手としての村田は、140キロ台の直球と縦変化のカーブを武器とする右の本格派。イメージ的に剛球一直線な感じがしなくもないが、テンポよく相手打者を抑えていた。
3年春は2回戦から登場。出雲北陵(島根)戦で6安打完封勝利を果たした。続く3回戦で相対したのがあの松坂大輔(現・ソフトバンク)擁する横浜(神奈川)。村田はのちにプロ野球界へ進む猛者たちを3失点に抑えるも、松坂はその上を行き完封。春の選抜大会優勝、そして夏の選手権大会優勝へのアシストをしてしまう。
そして最後の夏、こちらはのちのチームメート・古木克明擁する豊田大谷(東愛知)に敗れ初戦で姿を消した。村田は古木に先制打を浴びるなど、6失点。完敗だった。その後松坂・古木らとAAAアジア野球選手権大会で日の丸を背負い、この時が投手として第一線で投げた最後の大会だった。
日本大に進学した後は内野手にコンバート。「投手としては(松坂)大輔に勝てない」と痛感し、高校通算30本塁打を記録したバットで勝負を賭けることを決意。その答えが間違ってなかったのは、プロで2年連続本塁打王に輝いた実績が証明している。
新井貴浩は広島生まれ駒澤育ちのスラッガー
今季は通算2000安打を達成した広島・新井貴浩。偉業に向けたカウントダウンではチームメートから「まさかあのアライさんが…」とイジられていたが、それはあながちネタではなかったのかもしれない。プロ入りすら叶わなかった可能性もあったのだから。
当時の本拠地・広島市民球場からそれほど遠くない場所で生まれた新井は、地元の強豪校である広島工高の門をたたく。しかし3年夏の県大会でベスト16に進んだのが実績としてあるぐらいで、それほど目立った選手ではなかったようだ。
頭角を現し始めたのは東都大学リーグの名門・駒澤大に進学した後だ。中畑清(前DeNA監督)や石毛宏典(元西武ほか)を育てた太田誠監督(当時)の薫陶を受け、4年秋のリーグ戦では打点王とベストナインを受賞。大型内野手として蕾が開き始めた新井は、プロ入りを熱望する。
それでもプロのスカウトからは見向きもされず、太田監督は新井に就職先を決めるよう促した。だが新井は思いの外頑固なところがあった。
「契約金ゼロでも構わないので、プロに行かせてください」
当時はオリックスが契約金ゼロの新人を獲得していたこともあり、それを意識した発言だと思われる。結果的に大学のOBである大下剛史(当時ヘッドコーチ)や野村謙二郎(当時主力選手)の尽力もあり、新井は晴れてカープのユニフォームに袖を通すことができた。
ここからまた練習地獄の日々が始まり、紆余曲折の末に今日の新井が生まれるのだ。
文=加賀一輝(かがいっき)
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