9月半ばに入り、ベテラン選手の去就が大いに注目を集めている。中でも中日は谷繁元信兼任監督、和田一浩、小笠原道大と3人の大物選手が引退を決意した。
特に小笠原は持ち前のフルスイングを武器にセ・パ両リーグでMVP、打撃タイトルを獲得し一時代を築いた選手だった。高校、社会人と無名の存在ながら、バット一本で球界を代表するプレーヤーとなった小笠原のプロ生活を改めて振り返りたい。
千葉・暁星国際高校では捕手で2年夏に県大会準優勝を果たす。しかし当時は無名の存在であり、高校時代の通算本塁打は0本と、後の活躍を考えると信じがたいエピソードである。高校卒業後は社会人野球の強豪・NTT関東に入社。入社5年目の1996年には、新日鉄君津の補強選手として都市対抗に出場する。この時、新日鉄君津で4番を打っていたのが、後に小笠原とともにパ・リーグを代表する強打者となる松中信彦だった。
都市対抗ではチームのベスト8入りに貢献し、同年秋のドラフト会議で日本ハムからドラフト3位で指名を受ける。
小笠原は足が速かったこともあり、プロ入り当初は「捕手だけでなく、内野も守れるユーティリティープレーヤー」という評価だった。それでも1年目は、捕手での出場をメインに一軍で44試合に出場する。また、打撃コーチの加藤英司からはフルスイングを叩き込まれ、この時指導を受けたことが後の小笠原のバッティングに多大な影響を受けることとなる。翌98年は、71試合の出場ながらも打率.302と結果を残し、翌年のブレークへとつながっていく。
プロ3年目となった1999年、開幕から「2番・ファースト」でレギュラーに定着すると、25本塁打を放ち「バントをしない2番バッター」として一躍注目を浴びる。特に西武・松坂大輔のデビュー戦となった4月7日の西武戦では、6回にノーヒットノーランを打ち砕くセンター前ヒット、8回に2ランと大物ルーキー相手に意地を見せた。さらに翌00年は初タイトルとなる最多安打を獲得。02年、03年と2年連続で首位打者とパ・リーグを代表するバッターへと進化を遂げる。
2004年から日本ハムは東京から北海道へ本拠地を移転。小笠原は、この年から加入した新庄剛志とともにチームをけん引していく。同年夏にはアテネ五輪の日本代表に選出され、7番を打ち全試合にスタメン出場した。さらに06年の第1回WBCでも代表入りし、キューバとの決勝では3打点を挙げ優勝に貢献する。ペナントレースでも好調は続き、32本塁打、100打点とリーグ二冠王に。チームも44年ぶりの日本一となり、小笠原はリーグMVPを受賞。そしてシーズン後には、FA宣言し巨人へ移籍した。
トレードマークのヒゲを剃り落として巨人の一員となった小笠原は、主に3番を打ち打率.313、31本塁打、88打点と結果を残して、5年ぶりのリーグ優勝に貢献。MVPを受賞し江夏豊以来2人目となる両リーグMVPを達成する。
翌08年にはヤクルトから加入したラミレスと3、4番コンビを形成。シーズン終盤に調子が上向き、逆転リーグ優勝の原動力となる。09年には第2回WBC日本代表で主に5番を打ち、連覇に貢献する。レギュラーシーズンでも移籍後初めて「3割、30本、100打点」をマークした。そして11年、5月5日の阪神戦では通算2000安打を達成する。
しかし、その後は相次ぐケガやこの年から導入された統一球に苦しみ、83試合の出場に終わり規定打席に到達できなかった。さらに12年、13年と打撃不振に陥り出場機会が一気に減少。オフにはFA宣言し中日に活躍の場を求めた。
移籍1年目の14年は、主に代打として出場。球団タイ記録となる代打6打数連続安打を記録するなど、81試合で打率.301と新境地を開いた。最近では一軍復帰した9月12日のヤクルト戦の5回に代打で登場。小川泰弘から、勝ち越し打を放ち健在ぶりをアピールしていた。
文=武山智史(たけやま・さとし)