1997年、逆指名で当時のダイエーにドラフト2位で入団も、ルーキーイヤーは開幕1軍を果たした3位の柴原洋や、デビュー戦で満塁本塁打を放った“ドラ1”井口忠仁(現登録名・資仁/ロッテ)らがおり、同期よりも目立たぬ存在だった。
1998年ウエスタンリーグで本塁打王を獲得して頭角を現すと、翌年は開幕から1軍に。1999〜2000年のダイエー連覇の主砲として活躍。2000年にはMVPも獲得したが、チームの4番は小久保裕紀だった。
松中が完全にチームの中心に立ったのは2003年。故障でシーズンを棒に振った小久保に代わり、開幕から4番に座り、チームを牽引して、日本一を達成した。翌2004年には平成初の三冠王に輝いた。
首位打者と本塁打王は2回、打点王3回、2000年と2004年にはMVPを獲得。これだけ華々しい成績を挙げているのに、「短期決戦に弱い」や「身勝手」といった風評が、松中の偉大なる記録に対するリスペクトを妨げているような気がする。
2000年、巨人との日本シリーズでは6試合でわずか1安打。2004年のプレーオフの西武戦では19打数2安打という大不振で、日本シリーズ行きを逃した戦犯扱いを受けた。
しかし、1996年のアトランタ五輪では、キューバとの決勝戦で同点満塁本塁打を放った。2006年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では日本代表の4番を任せられ、打率.433を残す。初代王者の主砲としての役割をきっちり果たしたことなどを踏まえると、決して勝負弱いわけではない。
ほかにも2011年のCS(クライマックスシリーズ)で西武・牧田和久から打った代打満塁本塁打など、大きな仕事を何度も何度も成し遂げているのだ。
2013年、交流戦優勝のセレモニーへの参加をボイコットしたことで、自分勝手、協調性のない男といったレッテルを貼られてしまった。
話しを蒸し返すようで恐縮だが、「今日は出番がない」と言われた後、大差のついた試合で代打に送り出された。主砲のプライドを傷つけられたと同情の余地もあると思う。
そして誰よりも練習をし、黙々とバットを振り続ける姿は、語らずともホークスの若手選手へ良い影響を与えた。
ファームの練習でも誰よりもバットを振り、グラウンドで汗を流す松中の姿を何度も見た。もちろん上林誠知も塚田正義も猪本健太郎も、松中の背中を見てバットを振り続けたのだ。
2016年、松中のいなくなったホークスは、チーム初の3年連続日本一を目指してスタートを切った。
「チャンスがあれば、ホークスのユニホームを着たい」
その日が来るのか、そしていつなのかはわからない。けれども、少なくとも今年のホークスの選手たちには、松中イズムは生きている。
文=溝手孝司(みぞて・たかし)
札幌在住。ライター、イベント関連など、スポーツ関連の仕事を精力的にこなしている。北海道生まれなのに、ホークスファン歴約40年。99年ダイエー初Vを福岡ドームで観戦するなど、全国を飛び回りながら、1軍2軍問わずプロ野球を追いかけている。