100年前の第1回大会にも出場している早稲田実業、鳥羽、史上最多36回目の出場となる北海、戦後最長となる9年連続での出場を決めた聖光学院など、今年も常連校や伝統校が甲子園への切符を手にしている。
その一方で専大松戸や霞ヶ浦など、悲願の夏の甲子園初出場で沸く姿も、また高校野球の醍醐味だ。今年で100周年を迎える高校野球。その歴史を振り返ると、初出場組が名門校を打ち破ることで数々のドラマが生まれ、高校野球人気を盛り上げてきた点も見過ごせない。そこで今回は、“初出場校”が甲子園で一気に“初優勝”まで登り詰めたミラクルを紹介していこう。
【1949年・第31回大会……優勝・湘南】
戦後の学制改革から2年が経過。中等学校から高等学校への名称変更にも馴染んできたこの大会は波乱の連続だった。全国1365校が参加し、甲子園に駒を進めたのが23校。そのうち初出場は8校で、なかでも無名だった湘南が驚きの全国制覇を果たした大会だからだ。
まさに無欲の勝利だ。2回戦から出場し、城東(徳島・南四国代表)を9−3で撃破。「1つ勝ったから、あとは負けても構わない」と気が楽になり、あれよ あれよと勝利を重ね、決勝戦で岐阜(三岐代表)に5−3で勝利。後に慶應義塾大やプロ野球でも活躍する佐々木信也を中心に、チームワーク抜群の湘南ナインが、創部4年目で初出場初優勝を成し遂げたのだった。
【1965年・第47回大会……優勝・三池工】
この年の夏の甲子園決勝戦は、原貢監督率いる三池工と、銚子商の戦いとなった。三池工のある福岡県大牟田市が炭鉱町とあって、新聞は「ヤマの子とウミの子の対決」と囃し立てた。結果、“ヤマの子”が2−0で“ウミの子”に勝利。不況に悩む三池の市民たちを勇気づけた大会でもあった。
春夏通じて甲子園初出場で全国制覇を果たした原貢監督とナインたちは、故郷の大牟田市に凱旋。2年前の炭塵爆発事故で亡くなった約450人の中に父親がいた選手もいたという。暗い話題が多かった炭鉱町は沸きに沸き、集まった30万人の群衆の中にいたある子どもは、父の背中を見て、これ程までに人々に勇気と感動を与える「野球」を志すことを決意した。息子とは、ご存じ、現在巨人の監督である原辰徳少年。背中で父を語った原貢監督は昨年5月29日、79歳で亡くなった。
【1971年・第53回大会……優勝・桐蔭学園】
この年、前年より22校多い2569校の頂点に立ったのが桐蔭学園だった。前年優勝の東海大相模に続き、神奈川県勢が2年連続全国制覇を達成。桐蔭学園の優勝は「日本一の激戦区・神奈川」を定着させるきっかけとなった。
決勝戦のスコアは1−0。敗れた東北代表の磐城も思い出に残るチームだ。165センチのエース・田村隆寿は決勝戦まで3試合連続完封を記録。甲子園で34イニング目に許した失点が試合を決めたのだった。
この決勝点のホームを踏んだ主将・土屋恵三郎はその後、法政大に進学。三菱自動車川崎を経て1982年に母校・桐蔭学園野球部監督に就任。