■石毛宏典(1981年〜1994年)
アマチュア時代に輝かしい成績を収め、1981年のドラフト1位で西武に入団した石毛宏典。大物ルーキーとしてまさに鳴り物入りでやってきた。
入団してすぐに、前述した豊田泰光の背にあった背番号「7」を背負うことになる。石毛は黄金時代を支える中心メンバーとして大活躍。ベストナインに8度輝くなど、その後の結果を見れば、由緒正しい背番号「7」を背負ったのは当然のことに思える。
1994年のオフ、球団からの監督就任の打診を固辞したことで背番号「7」に別れを告げることになったが、もう少しあの青いユニフォームでのプレーを味わいたかったと思わせる選手だった。
■ダリン・ジャクソン(1995年〜1996年)
来日前年の1994年にメジャーリーグで2ケタ本塁打を放っていたジャクソン。1994年から1995年にかけてメジャーリーグで起こった200日を超える長期ストライキの影響により西武でプレーする道を選び、1995年から2年にわたって背番号「7」を背負った。
それまではミスターレオ・石毛が背負っていただけに、日本人選手だとプレッシャーで潰れていた可能性もある。しかし、助っ人のジャクソンは偉大な背番号に臆することなく実力を発揮し、2年で39本の本塁打を放つなど、そこそこ活躍した。
そして1997年からは、いよいよ松井が背負うことになるのだ。
■片岡易之※(2005年〜2013年)
1997年から背番号「7」を背負った松井が2003年にメジャー挑戦。主を失った格好だったが、1年の充電期間をおいて2005年から片岡易之が背負うことになった。
片岡といえば、2007年から4年連続で盗塁王に輝くなど快速で鳴らした選手。松井同様に足で魅了した。また、松井が守った遊撃には中島裕之(現宏之、オリックス)がいたため片岡は二塁に就いていたが、片岡に松井の姿を重ねる西武ファンも多かったはずだ。
片岡自身が望んだFA移籍とはいえ、巨人に去ったことがつくづく悔やまれる。
(※2013年からの登録名は片岡治大)
片岡が抜けたあとの背番号「7」は、フロントがヤケになったわけではないだろうが、片岡の人的補償で巨人から獲得した脇谷亮太(巨人)に与えるなど迷走した感もあった。しかし今回、浄化期間(?)を経て、背番号「7」は再びかつての主の背中に還ってきた。
筆者としては、今季ブレイクし、アジア プロ野球チャンピオンシップ2017でジャパンの背番号「7」を背負って活躍した外崎なら納得と思ったが、松井本人が背負うなら話は別だ。
とはいえ、あと何年、松井の背番号「7」を見られるかわからない。ならば、来季は足繁く西武ドームに通うことに決めた。もちろん、松井のネーム入りユニフォームを買うのは言うまでもない。
(※松井稼頭央の写真は楽天時代のもの)
文=森田真悟(もりた・しんご)