“甲子園あるある”というべきか、試合に敗れた球児たちはほぼ全員が甲子園の土を持って帰る。これはいったい誰が始めたのか。甲子園の土にまつわるうんちくとともに、2つの有力な説を紐解いてみたい。
では、冒頭の疑問について。試合に敗れた後、その甲子園の土を最初に持ち帰った球児は誰か? 2つある説のなかの1つは、巨人V9時代の監督、あの故・川上哲治だというものだ。1937年、第23回大会の中京商対熊本工の決勝戦は、3−1で中京商が勝利。試合に敗れた熊本工の川上は「私は記念に甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、熊本工のマウンドに撒いた」と当時を振り返っている。
もう1つは、夏の甲子園3連覇をかけて登板した小倉中・小倉高のエース・福島一雄だという説だ。1949年、第31回大会の準々決勝に登板した福島は、連投の影響で「鉛筆も持てないくらい」ヒジを痛めていた。迎えた9回裏、右ヒジは限界に達して、ついに投手交代。結局、後続の投手が打たれてサヨナラ負けを喫した。
3連覇を逃してベンチへ引き揚げるナインのなかで、福島は1人でマウンドに歩み寄り、スコアボードを見つめたまま立ちすくんだという。そして、無意識にプレート付近の土を一握りしてポケットに入れ、涙ぐみながら退場した。
その福島のもとに、大会が終わってから大会委員長から手紙が届く。「よくやった。これからも頑張ってください」というねぎらいの手紙で、土を拾ったことも書いてあった。福島は手紙を読んだ後、慌ててユニフォームのポケットを確認すると、甲子園の土が入っていたという。
さて、結局のところ、最初に土を持って帰ったのは川上か福島か? 時期として早いのは川上であり、甲子園球場公式webサイトでも川上説を記載している。基本的には川上哲治が第一号、という考えが近年では主流だ。
ただ、川上以前から人知れず甲子園の土を持ち帰る習慣はあった、といわれることも付記しておきたい。