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「夢の球宴」と呼ばれる日本プロ野球の夏の祭典、オールスターゲームが間近に迫りました。今年は札幌ドーム、神宮球場、福島・いわきで3試合が行われます。
僕が15年前から続けてきた往年の名選手インタビューにおいても、オールスターが話題に上ることは多々ありました。なかでも印象深かったのが、“打撃の職人”と呼ばれた山内一弘さん。残念ながら、山内さんは2009年2月に76歳で亡くなられましたが、生前の2005年6月にお会いする機会に恵まれたのです。
山内さんは愛知の起工業高からノンプロの川島紡績を経て、1952年に毎日(のちに大毎、現ロッテ)に入団。実働19年で1964年以降は阪神、広島でも活躍し、通算2271安打、396本塁打、1286打点を記録。獲得タイトルは首位打者1回、本塁打王2回、MVP1回、ベストナイン10回という超一流選手らしく、オールスター出場は実に16回を数えます。
ではなぜ、そのオールスターの話題が印象深かったのか。
往年の名選手インタビューは、まずプロ入りまでの経緯から入るか、今のプロ野球の事象から過去へさかのぼるか、大きく分ければそのどちらかです。
しかし山内さんの場合、その時の取材テーマに沿って、現役時代に対戦した投手の話からスタート。そこで普通は各投手の話が広がりそうなところ、「金田正一(元国鉄ほか)」の名前が出た途端、オールスターの思い出が語られたのでした。
「金田はね、わたし、昭和29年に初めてオールスターに出たとき、後楽園での第2戦でサヨナラヒットを打った。インコースの速い球で、ピッときた。その当時からわたしはインコース好きでしたから、もう10センチも下に当たったらボキッとバットを折るところだったけど、ショートの後ろのほうへ飛んで。あのときの速い球は今でも焼き付いてますね」
1954(昭和29)年の山内さんはプロ3年目で外野のレギュラーに定着。初の打点王に輝いて打率.308、28本塁打をマークしているのですが、同年はオールスターでの活躍が打力向上につながったそうです。実際、試合を決めた第2戦は5打数4安打でMVPに輝き、第1戦では先制ホームランを放っています。
「打力向上って、技術的なことはアレやけれども、オールスターになると面白がって行きよったし、楽しかったね」
翌1955(昭和30)年もオールスターに出場した山内さんは、大阪球場での第1戦、2回に先制ソロ本塁打。パ・リーグ投手陣がセ・リーグ打線をゼロに抑えていくと、9回、今度は杉下茂(元中日ほか)からとどめのタイムリー二塁打。2-0でパ・リーグが勝利し、山内さんはまたもMVPになったのでした。
「杉下さんといえば、フォークボール。当時、そんなボールを投げるピッチャーいなかったから、たまにはフォークを見せてくれないかなあ、見たいなあと。そしたら、ストレートばっかり。で、カウント2−2になって、今度こそフォークと思いきや、ズバーンとアウトコースいっぱいのストレート。見逃し三振と思ったら『ボール』とアンパイアが言ったもんだから大儲けでね。それで今度、また同じ球をほうってきたから、ちょーんとジャストミートしたら右中間へ飛んでいった」
今と違って、当時のオールスターには優秀投手賞、敢闘賞、打撃賞、首位打者賞、盗塁賞といった賞があって、山内さんは第2戦でもタイムリー安打を放って敢闘賞を獲得。
以後、出場すれば毎年のように受賞したことから「オールスター男」と呼ばれ、「賞金泥棒」なるニックネームまで付けられたほどでした。
「泥棒だなんて、まったくありがたくない呼び名ですけどね、あの頃のパ・リーグは、オールスターの試合前に監督がミーティングやるんですよ。といっても別に選手に向けて何か話があるわけじゃなくて、西鉄の監督の三原脩さんなんか、ポケットからおもむろに、その日の賞品のカタログ出して読み上げるわけ。で、『これと思うヤツをみんな狙え!』と言うわけ」
今でこそあまり言われなくなりましたが、当時、「人気のセ、実力のパ」という言葉が野球界に広まり始めていました。オールスターはまさにパ・リーグが実力を見せつける場であり、選手たちが各賞品に狙いを定めて活躍し、結果的にセ・リーグに勝つ。そのためにパ・リーグの監督は、試合前から選手たちを鼓舞していたそうです。
「今思い出せば、オールスターの1週間ぐらい前から、緊張はしてましたね。頭の中がオールスターでいっぱいになって、ペナントレースがうわの空みたいになってたですね」
そこまで入れ込んでおられたとは! と驚かされ、僕は思わず「本当ですか?」と聞いていました。
「本当に。それで、夢を見るんですよ。賞品もらった、またもらった、またもらったーってね。今考えてみたら、自己暗示ですね」
ある意味では、公式戦以上に集中して臨んでいた夢舞台。オールスターでの山内さんは通算38試合に出場して、打率.314、8本塁打、24打点という好成績を残しています。
もちろん公式戦でも打線の中軸を担う活躍をして、引退後は指導者の道を歩んだ山内さんですが、取材中はバットを手にしながら、「バッティングはむつかしい」という言葉を何度も繰り返していました。
特に「むつかしさ」を感じたのは、1964年、エース・小山正明との交換で大毎から阪神に移った後。<世紀のトレード>と称されたこの移籍劇が大きな話題となり、注目され、期待されたなかで、「結果を意識したプレーというものが非常に苦痛になった」のだそうです。
「その頃の自分を思い起こして、掘り起こしてみるとね、バッティングは、技術的なことよりもメンタル面が大きく左右するということで、メンタル面も一種の技術だと。非常に大切な技術だと。これをコントロールできるか、できないか。そこのところがいかに大事か、阪神のときからわかってくるようになったですね」
阪神移籍時の山内さんはプロ13年目、32歳。ベテランの域に達して、メンタル面のコントロールの重要性に気づいたからこそ、長く第一線で結果を残し続けられたのではないでしょうか。そして、その原点にオールスターがあったといえそうです。
「オールスターに出だしたとき、若造だった頃は、ただ球だけ見て、球だけ打っとっただけなんだよ。これがいちばん純粋で、純真で、トライする、挑戦するのがいかによかったか、ということなのよ」
今年のオールスターも若い選手が数多く出場します。彼たちのプレーに、若造だった頃の山内さんのような、純粋な挑戦心がどれだけ見られるか――。大いに期待したいと思います。