今年が90周年というメモリアルイヤーだった阪神甲子園球場。その甲子園にとって、今日12月5日(※この記事はスポニチ・アネックスで12/5に配信)もまた記念すべき日といえる。
1991年12月5日、ラッキーゾーンが44年ぶりに撤去されたのだ。かつて、甲子園のシンボルでもあったラッキーゾーンがなくなってから、もう23年も経つということに隔世の感を禁じ得ない。
ラッキーゾーンが作られた理由としてよく挙げられるのが、1934年の日米野球で来日したベーブ・ルースが、甲子園を見て「この球場は大きすぎる」と言ったから、とするものがある。当時の甲子園は両翼110メートル、中堅119メートル、左右中間は128メートルと今以上にフィールドは広かった。
日米野球から2年後の1936年にバックスクリーンの増設などで若干フィールドは狭くはなったものの、肝心のラッキーゾーンが設けられたのは日米野球から13年後の1947年のこと。ベーブ・ルースの発言を理由にするのは少し無理がある。
実際には1947年当時、阪神のプレーイングマネージャーだった若林忠志が、ファンサービスの狙いから考案したアイデアだった。当時はボールの材質も悪く、打球が飛ばない時代。ラッキーゾーンの導入によって、本塁打数を増やし、ファンに喜んでもらおうと考えたのだ。
もっとも、ラッキーゾーンのお披露目となった1947年5月26日の阪神vs南海では、狭くなった球場を見て「これなら本塁打が打てそうだ」と大振りする選手が続出。結果的に、この試合で先発した若林が1−0で完封勝利をおさめるという皮肉な結果になっている。
ただ、ラッキーゾーンの導入によって阪神の攻撃力が増したのも間違いない。藤村富美男、別当薫、土井垣武のクリーンナップを軸にした攻撃陣は「ダイナマイト打線」と呼ばれ、1949年には137試合で141本塁打とまさに打棒が爆発した。
もっとも、ラッキーゾーンを導入した1947年こそリーグ優勝を果たしているが、その後、本塁打数が増えるのとは反比例するようにチームの順位は1948年/3位→1949年/6位と下がっていったのも、なんとも皮肉的な結果といえるだろう。